寮美千子さんの『夢見る水の王国』上・下巻(角川書店)を読み終えました。
素晴らしい物語でした。

美しいイメージがこれでもかと押し寄せる。
まるで、賢治の
「ダイアモンドのトラストが 獲れないふりのストックを みんないちどにぶちまけた」というふうで・・・

少女が海岸で拾い集めた宝物を
パズルのように並べて作り出すモザイク模様・・・
まるで作中のそのシーンのように
一つ一つが輝いて美しいのに、
それらによって造り上げられた模様もまた
壮大な美しいひとつの物語になっている・・・
そんなふうにも感じた。

ただイメージが美しいだけでなく
そのなかに私は様々な意味を見つける。
すべてが生きている。
心に響く言葉があちこちにちりばめられている。

マミコはマミとミコという二つの分身になってしまう。
黒猫のヌバタマ。その眼はトパーズとサファイア!
そして角をとられた木馬のヨミは白馬になる。
世界の果てに名前を捨てに行こうとするマミ。
それを取り戻そうとするミコ。
傷ついたマミを守るヌバタマ。
くじけそうになるミコを励ますヨミ。

夢見る水の王国とは何処か、
マミとミコとはいったい誰なのか。
これがいったいなんの物語なのかを
私が最後に知ったとき、
そこからが本当の物語のはじまりであることに気づいた。


いい本、良かった本は沢山あるけれど
出会えたことに心底感謝したくなる本(=作家)というのは
そう多いわけではない。
私はこの寮美千子というひとに出会えて
ほんとうによかった・・・。
もっと早く知りたかった、とも思うが
きっと今が私にとっては最良の時だったに違いない。

(すべてがわたくしの中のみんなであるやうに
 みんなのおのおののなかのすべてですから)

賢治のいう、幾重にも重なった世界を
この人はこの人の言葉で伝えてくれる。


「童児(わらし)こさえる代わりに書いたのだもや」
といって賢治はたくさんの“子供たち”を残した。
その子たちから生まれたのがこの人の作品。
つまり、寮美千子の作品は賢治の孫に違いない・・・!
なんていうと、もしかしてご本人は不本意でしょうか。
それでも私は、作品を読みながらそう思えて仕方がなかったのです。


寮さんは、インドへの旅で
私の知る限りでも、3つの異なった物語を生み出した。
そのうちの2つ『楽園の鳥』とこの『夢見る水の王国』が
ほぼ同時に作者の中で進行していたことに驚く。
なぜなら、それらはまったく違う趣の作品。
人は多面性を持つけれど
こんな風にみごとにちがう形でつきつけられると
私はすっかりその魅力に捕らわれてしまう。

私の言葉ではとても寮美千子の魅力を
うまく伝えられないのがほんとうにもどかしい。
それより作品を読んで頂くのが一番なのでしょう。

次には岩手の遠野が舞台の新作が予定されているそうですが、
私には待ち遠しくてたまらないのです。
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by signaless5 | 2010-05-23 12:34 |

韮崎の美味しいもの

先日は甲府で講演会に参加した後
韮崎で一泊しました。

私はたいていルートイン韮崎に泊まるのですが
その斜向かいにある和菓子屋「うさぎや」さんのお菓子は絶品です。

ジャンボ大福が有名かな?
私は「うさぎまんじゅう」も大好きです。
あんドーナツも美味しい!
・・・ということはたぶん、
ここのお菓子はどれも美味しいと思います!

保存料など添加物は使われていないとのこと。
日持ちはしませんが、こだわりをもって
愛情こめてつくられているのですね。
あんは甘すぎず、小豆の味がしっかりわかる。
皮もおいしい。
このバランスが絶妙。

私の住む街は、抹茶の産地ということもあり
和菓子屋さんがとても多いところですが
私としては、ここ、うさぎやさんにかなうところはありません。

もし、このお店がウチの近所だったら
きっと毎日通っちゃって
とんでもないことになってるはず・・・♪( *´∇`)_○○○○

韮崎の近くにお越しの際は
ぜひ一度寄ってみて下さいね。
人気のお店なので午後には売り切れてしまうこともあるので
早めに行ったほうがいいかもしれません。


参考ブログ
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by signaless5 | 2010-05-21 13:02 |


保阪嘉内は甲府中学一年の時、ハレー彗星をスケッチしました。
1910年(明治43年)のことです。

今年はちょうどその100年後であることから、
今回の講演『ハレー彗星百周年記念企画 保阪嘉内が見た星空』が
韮崎市のアザリア記念会によって企画されました。


5月15日土曜日、
甲府市鶴舞公園内の甲府城趾・恩賜林記念館にて行われた
その講演会に私も参加してきました。

正午に新幹線で静岡へ、
それからワイドビューふじかわで甲府まで。
到着は4時。
迎えに来てくれたKちゃんと会場入りし、準備を少し手伝いました。

6時すぎ、地元のガイドさんの案内で謝恩塔に登って、
西の空を望みました。
お天気も良く、ちょうど夕陽が甲斐駒ヶ岳に落ちるところで
嘉内の描いたスケッチの山々がくっきりと見えて、あちこちで感嘆の声。
すぐ眼の前は甲府中学の寄宿舎があった場所で、
やはり嘉内はその辺りから、
ハレー彗星を観察しスケッチしたのに違いありません。

その後、恩賜林記念館に戻って講演会。
レトロで素敵な雰囲気の建物です。

最初に、中学生の嘉内と校長の大島正健が登場!
(アザリア記念会のM氏とS氏が扮しています)
当時の嘉内をとりまく状況を粋な演出で説明してくれました。

ちなみに、大島正健校長は札幌農学校の第一期生で、
クラーク博士の指導を受けた方です。
(有名な「少年よ、大志を抱け!」というのは正健が訳したのだそうです)
さらに、その頃の英語教師が野尻抱影で、
天文の世界では有名な「星の文学者」と呼ばれる方です。
嘉内はその抱影からハレー彗星のことを聞き、
自分も観察したのだと思われます。
嘉内は非常に恵まれた環境で中学時代を過ごしたのですね。


そして嘉内の次男・保阪庸夫氏は黒い帽子(賢治のような)を被って登場!
子供の頃の嘉内を中心に語ってくれました。
嘉内は小さい頃、石を拾って集めたり、草花を庭に植えてみたりして
遊んだということですが・・・はて、どこかの誰かとよく似ていますね。
そして農民に混じって土いじりが好きであったと。
その中で農村改革の夢を、小さい頃から抱くようになった。
芝居や芸術にも興味を持ち、
農民はこういうものに触れて楽しむべきだとの考えを持ったとも。
嘉内が亡くなった時、庸夫氏は10歳です。
それまでの間に父・嘉内といろんな話をした、とのことで
様々なことを鮮明に記憶されていることに、いつも驚きます。

親友が亡くなった時、嘉内は「早世論」なるもので
その死を悼んだという話もされていましたが、
これは、「人はやるべきことをやり楽しんだのちは、潔く次の世代に譲って
早く逝ってしかるべき」というものだそうです。
一見乱暴な考えのようですが
私はこれは、
「人生、その時々でせいいっぱい生きることが大事」
ということなのではないかな、と思います。
その嘉内自身も、41歳の若さでこの世を去るのですが
与えられた生を懸命に生きたのではないでしょうか。

そして次に、サイト『賢治の事務所』でお馴染み
宮沢賢治学会の加倉井厚夫氏による「保阪嘉内が見たハレー彗星」の講演。
まず、嘉内がスケッチした場所がほぼ特定された経緯を説明。
先ほど、実際に駒ヶ岳から地蔵・観音・薬師岳の連なりを見てきたので
実感として納得できました。

当時の日にちと時刻ごとにハレー彗星の位置を表した図や
スケッチに書かれた日付などから
嘉内が観察した日時を推測。
それだけでなく、嘉内がどういう手順でスケッチをしたかも推理されて、
非常に興味深い内容でした。

それと、野尻抱影が描いたスケッチと、嘉内のものとの
彗星の尾ほ方向がなぜ違うのかも解き明かしてくれて
まったく天文知識のない者にも非常にわかりやすく、
面白く楽しい講義でした。

奇しくも、嘉内がスケッチした日と同じ場所に
私たちがさっき見た夕陽が落ちていった・・・
ということはちょっと感動的でした。

こんな先生が、学校にいてくれたら
子供達はみんな星や宇宙に興味をもち、
未来の天文学者が増えるに違いないのに・・・と思いました。

思えば、一枚のスケッチ。
そこに詰まっている情報の多さ。

嘉内の書いた文字、
「銀漢ヲ行ク彗星ハ夜行列車ノ様ニニテ 遙カ虚空ニ消エニケリ」

賢治のいた花巻からは天候が悪く、
ハレー彗星は見えなかったといわれます。
嘉内は賢治に繰り返しその時自分が見た彗星の話をしたに違いありません。

野尻抱影の弟子に草下英明氏という
賢治と星の著書でも有名な天文研究家がおられました。
そして草下氏を師と仰いだのが加倉井さん。
ここにも不思議な巡り合わせが。

100年前に、嘉内が一枚のスケッチを描き
私たちが今そのときのことをあれこれ思い描き
嘉内の想いや賢治の想い、それぞれの人生、
そしてやっぱり、嘉内と出会わなければ
あの賢治はなかっただろうなぁ・・・
なんと素晴らしい出会いだろう、
賢治も様々な人に支えられて生きていた・・・
人と人の繋がり、現在にも続く不思議な繋がり・・・・
そんなことを最後に考えていたら
感無量な気持ちになってしまいました。
振り向いたKちゃん、あれ、この人なんでウルウルしている?と思ったかも・・・?

最後の拍手は盛大に惜しみなく
保阪庸夫氏と
加倉井厚夫氏に送られていました。


講演会終了後、お疲れ様の打ち上げに。
私も「座敷童」と化してこっそり紛れ込んだというわけで、
何故か一人多いぞ・・・と不思議に思われたはず・・・!?

韮崎で一泊し、次の朝あずさ1号に飛び乗って帰路につきました。
ちょっともったいないようなとんぼ返りでしたが
短い時間でも内容はぎゅっと濃縮され
とても充実したひとときを過ごさせて頂いて
おなかも心もいっぱいで帰ってきました。

何かに似てる・・・
そう、岩手=イーハトーブに行ったときのような感覚に似ている!
それもそうですよね。
ここには嘉内さんが生きているのですから・・・。

素晴らしいお話をしてくださった
庸夫先生と加倉井さん、
そしてお世話になった皆さんには
ほんとうに感謝です。

ちょっと(だいぶ?)無理をしてでも
山梨に出かけていって本当によかったと思います。
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by signaless5 | 2010-05-17 21:52 | 嘉内

賢治が残した原稿のほとんどは未完成のままで
もしかしたらすべてがそうだと云ってもいいかもしれません。

その膨大なテキストを整理し、読み解いて
「校本」「新修校本」さらには「新校本」へと編み上げてくださった方々のおかげで
今現在私たちは賢治の作品を読み味わうことができます。

賢治の場合は非常に特殊で
亡くなる直前まで凄まじく手を入れ続けたことや
用紙の表裏を使ったり、一度は反故にしたものの裏に書いたりしていて
作品の最終形を定めるのが非常に困難だということ・・・。
その作業がどれほどの時間と労力を要したかは
私の想像を遙かに超えたものだと思います。

詩や童話を読むとき
それを思いだすたび
自然と頭を下げたい気持ちになります。

先日、その編者のお一人、入沢康夫氏の
『プリオシン海岸からの報告』(筑摩書房)という本を購入しました。
(今頃??と笑われそうなくらい必須の書籍ではなかったかと思い、
あらためて恥ずかしくなりますが)

その中に「境内」という詩のテキスト発見の経緯が書かれていました。
それは、それまでに明らかになっていた詩「(そのまっくらな巨きなものを)」と
「(みんな食事もすんだらしく)」という詩をつなぐものです。
以下引用します。
今回の、校本全集刊行に当たっての草稿再調査の間に、詩稿束の一つの中から、一枚の詩稿が出てきた。賢治が自作して使用していた罫がガリ版で刷られた詩稿用紙で、その表裏には、全面に毛筆で黒々と白秋の短歌が習字されている。ところが、よく見ると、その習字によってかなりの部分が塗り消されるような形になっているが、この紙の両面には、もと鉛筆で口語詩が記されていたことがわかる。墨の字の下になっている字は、読み取るのが仲々困難であったが、光に斜めにすかしたり、拡大鏡の助けを借りたりしながら、長時間かかってようやく読み解いてみると、そこに、これまで誰も読んだことのない四十六行の詩が現れてきたのである。



そしてもう一つ、「薤露青」という詩について。
宮沢賢治に「薤露青」という詩がある。いや、「ある」というより「あった」というべきかも知れない。「一六六」なる作品番号と、「一九二四,七,一七」の日付とを持つこの作品は、音楽用五線譜ノートからとりはずされたと覚しい一葉の紙に、いったんは硬めの芯の鉛筆を使い、きちんとした字体と字配りで書き込まれながら、のちに全面的に消しゴムで抹消されているからである。

そのようにして発見された紙片を
目を凝らして判読したものだということです。

なんということでしょうか。
このことは私には非常に感動的で
感慨深いものがあります。

この二つの詩「境内」と「薤露青」は、どちらも
賢治のその時々の状況はもちろん
心情の奥深くを伝えているものであり
宮澤賢治という人を知る上で
非常に重要な「鍵」になるといってもいいような
作品ではないかと私は思います。
しかも「薤露青」のモチーフは、「銀河鉄道の夜」へとつながるものです。

それらが実は賢治自身の手でいったんは消されていた、という理由は
そらはやはり、その詩の内容から想像するに
作者としてはあまりに生々しかったからなのでしょうか。

賢治は生前、それらが人目に触れることを
望んでいなかったのかもしれませんが
今、この二つの詩を噛みしめる時
もしかしたらそれは
時を経て
賢治がこれらの作品をプリオシンコーストから
私たちによこしてくれたということではないかと思ったりもし、
大変な苦労の末、読みやすい形にして
私たちに届けてくださった先生方にさらに深い感謝の思いを抱きます。



 境内
 

   みんなが辨当を食べてゐる間
   わたくしはこの杉の幹にかくれて
   しばらくひとり憩んでゐやう
   二里も遠くから この野原中
   くろくわだかまって見え
   千年にもなると云はれる
   林のなかの一本だ
   うす光る巻積雲に
   梢が黒く浮いてゐて
   見てゐると
   杉とわたくしとが
   空を旅してゐるやうだ
   みんなは杉のうしろの方
   山門の下や石碑に腰かけて
   割合ひっそりしてゐるのは
   いま盛んにたべてゐるのだ
   約束をしてみな辨当をもち出して
   じぶんの家の近辺を
   ふだんはあるかないやうなあちこちの田の隅まで
   仲間といっしょにまはってあるく
   ちょっと異様な気持ちだらう
   おれも飯でも握ってもってくるとよかった
   空手で来ても
   学校前の荒物店で
   パンなぞ買へると考へたのは
   第一ひどい間違ひだった
   冬は酸へずに五日や十日置けるので
   とにかく売ってゐたのだらう
   パンはありませんかと云ふと
   冬はたしかに売ったのに
   主人がまるで忘れたやうな
   ひどくけげんな顔をして
   はあ? パンすかときいてゐた
   一つの椅子に腰かけて
   朝から酒をのんでゐた
   眉の蕪雑なぢいさんが
   ぢろっとおれをふり向いた
   それから大へん親切さうに
   パンだらそこにあったっけがと
   右手の棚を何かさがすといふ風にして
   それから大へんとぼけた顔で
   ははあ食はれなぃ石(セキ)バンだと
   さう云ひながらおれを見た
   主人もすこしもくつろがず
   おれにもわらふ余裕がなかった
   あのぢいさんにあすこまで
   強い皮肉を云はせたものを
   そのまっくらな巨きなものを
   おれはどうにも動かせない
   結局おれではだめなのかなあ
   みんなはもう飯もすんだのか
   改めてまたどらをうったり手を叩いたり
   林いっぱい大へんにぎやかになった
   向ふはさっき
   みんなといっしょに入った鳥居
   しだれのやなぎや桜や水
   鳥居は明るいま夏の野原にひらいてゐる
   あゝ杉を出て社殿をのぼり
   絵馬や格子に囲まれた
   うすくらがりの板の上に
   からだを投げておれは泣きたい
   けれどもおれはそれをしてはならない
   無畏 無畏
   断じて進め




一六六
     薤露青

                  一九二四、七、一七、
 
   みをつくしの列をなつかしくうかべ
   薤露青の聖らかな空明のなかを
   たえずさびしく湧き鳴りながら
   よもすがら南十字へながれる水よ
   岸のまっくろなくるみばやしのなかでは
   いま膨大なわかちがたい夜の呼吸から
   銀の分子が析出される
    ……みをつくしの影はうつくしく水にうつり
      プリオシンコーストに反射して崩れてくる波は
      ときどきかすかな燐光をなげる……
   橋板や空がいきなりいままた明るくなるのは
   この旱天のどこからかくるいなびかりらしい
   水よわたくしの胸いっぱいの
   やり場所のないかなしさを
   はるかなマヂェランの星雲へとゞけてくれ
   そこには赤いいさり火がゆらぎ
   蝎がうす雲の上を這ふ
     ……たえず企画したえずかなしみ
       たえず窮乏をつゞけながら
       どこまでもながれて行くもの……
   この星の夜の大河の欄干はもう朽ちた
   わたくしはまた西のわづかな薄明の残りや
   うすい血紅瑪瑙をのぞみ
   しづかな鱗の呼吸をきく
     ……なつかしい夢のみをつくし……
   声のいゝ製糸場の工女たちが
   わたくしをあざけるやうに歌って行けば
   そのなかにはわたくしの亡くなった妹の声が
   たしかに二つも入ってゐる
     ……あの力いっぱいに
       細い弱いのどからうたふ女の声だ……
   杉ばやしの上がいままた明るくなるのは
   そこから月が出やうとしてゐるので
   鳥はしきりにさはいでゐる
     ……みをつくしらは夢の兵隊……
   南からまた電光がひらめけば
   さかなはアセチレンの匂をはく
   水は銀河の投影のやうに地平線までながれ
   灰いろはがねのそらの環
     ……あゝ いとしくおもふものが
       そのまゝどこへ行ってしまったかわからないことが
       なんといふいゝことだらう……
   かなしさは空明から降り
   黒い鳥の鋭く過ぎるころ
   秋の鮎のさびの模様が
   そらに白く数条わたる
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by signaless5 | 2010-05-01 09:05 |