ホモイの目(Ⅱ)

子兎のホモイは、川に流されたひばりの子を助けて
鳥の王様から『貝の火』という宝珠をもらいます。

「これは有名な貝の火といふ宝物だ。これは大変な玉だぞ。これをこのまゝ一生満足に持ってゐる 事のできたものは今までに鳥に二人魚に一人あっただけだといふ話だ。お前はよく気を付けて光をなくさないやうにするんだぞ。」

お父さんの忠告にホモイは

「それは大丈夫ですよ。僕は決してなくしませんよ。そんなやうなことはひばりも云ってゐました。僕は毎日百遍づつ息をふきかけて百遍づつ紅雀の毛でみがいてやりませう。」
「大丈夫だよ。僕なんかきっと立派にやるよ。」

そういいながらやっぱりホモイは
他の動物たちの尊敬を集めるうちに
少しずつ調子に乗ってしまいます。
お父さんに叱られても、
まだ『貝の火』がもっともっと赤く燃えているのを見て
また罪を重ねてしまいます。
そして3度目には、どんなに悪いことをしても
『貝の火』の輝きが変わらないのをいいことに得意になってしまいます。

ついには狐にだまされて、鳥達を捕まえる手助けをし
とうとう『貝の火』の炎は消えてただの白い石になってしまいました。
そしてそれが砕けて粉が目に入り
ホモイは、まったく物が見えなくなってしまいます。

お父さんは
「泣くな。こんなことはどこにもあるのだ。それをよくわかったお前は、一番さいわひなのだ。目はきっと又よくなる。お父さんがよくしてやるから。な。泣くな。」

と慰めましたが
調子に乗ったホモイが悪いとはいえ、
なんとも悲しい結末です。

最初から「僕は大丈夫」と思っていること自体がもう慢心であり
父の度重なる忠告にも、シュンとはしても
ホモイには、何が悪いのか、自分が何をしているのかが
少しも見えてはいなかったのです。

曇ってしまった『貝の火』によって
物が見えなくなったとき
はじめてホモイは自分のしてきたことが見えたのです。

このお話のつづきは
私はこう考えます。

ホモイがつぎに涙を拭いて
鈴蘭の葉がきらきら光り、つりがねそうが
「カン、カン、カンカエコカンコカンコカン」と
朝の鐘を高く鳴らす外へ出て行ったとき、
その目は少しずつ、ほんとうに見えるようになるのです。

本当に愛情をもって見守ってくれている人(兎?)の存在に気づいて
そのいうことをよく聞き、
あらゆるものに感謝する心を得ることができれば
ホモイはきっと生まれ変わって生きることができると
そう思います。
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by signaless5 | 2010-02-28 11:20 | 童話

「剣舞の歌」

前回に続いてhamagakiさんの歌曲について。

友人がさっそくダウンロードして聴いてるよ、との
うれしいメールをくれました。
サイトの解説も併せて読んで頂ければ
一つ一つの曲について、賢治の思いや
曲の背景、hamagasiさんのこだわりの部分がよくわかると思います。


そこで、私がなぜこれらの曲が気に入っているかという
具体的なわかりやすい例が「剣舞の歌」にあります。
もともとこの「詩」はとても好きです。

たとえば私の持っている他の作家達ののCD集では
この曲はまるでマーチングバンド演奏のようなアレンジにされてしまっています。

しかし、賢治は
dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah
と表しているのです。
これはただの歌詞ではなくて
この歌のリズムの重要な要素のはずです。

私としても、
やはりこの歌は
dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah
のリズムで歌いたいのです。

メロディがわかればいいでないか、
素晴らしければいいでないか、と思われるかもしれませんが
そこらへんの細かなところを
どうしても気にしてしまうのが
わたくし、ということです。
校本の楽譜でなく、
賢治の弟、清六さんのソノシートを採用しているところもいいと思います。

可能なら他のすべての曲についても
どこが素敵かとか解説したいくらいですが・・・
まぁ、このへんにしておきます。
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by signaless5 | 2010-02-26 09:38 | 音楽

賢治歌曲集

私がいつも何かと頼りにさせて頂いている
hamagaki seijiさんの「宮沢賢治の詩の世界」のサイトには
「歌曲の部屋」というのがあります。
賢治はたくさんの歌曲や替え歌を残していますが
そこには、これらの曲の楽譜をもとに
hamagaki さんが伴奏などをつけアレンジされたものを
データにしたものが納められています。

先日、保阪嘉内の作った歌曲、
「藤井青年団々歌」と「勿忘草の歌」もアップされており
それらがとても素晴らしかったので
私はCDに落として何度も聴いていました。

私のパソコンのちゃちなスピーカーでは聴くことのできない音も
しっかりと出て、音が全然違って聴こえ、
細やかなところまでこだわって作られているのが非常によくわかり、
最後のピアノの余韻まで味わうことができました。

そこでふと、もしや・・・・と思って
賢治の歌曲も一通りCDに落としてみたのです。

それは予想を裏切らないどころか
はるかにはるかに素晴らしいものでした。

賢治の歌曲は、今ではもうたくさんの音楽家さんたちが
演奏したリCDで出されていますが
本音のところでは、私自身はあまり「これはいい!」というものに出会えていません。
それはなぜかというと
恐らく自分の中である程度賢治の詩や童話などの作品を通して
その曲のイメージができてしまっていて
たとえばどんなに技術的にすごいものであっても
賢治の想像したのはきっとこんなんじゃないよな~とか
あのシチュエーションにはちょっとあわないよな~とか
素人ながらわがままなで勝手な嗜好から、ということです。

しかし、しかし!
hamagakiさんの作った曲をCDで聴いてみたら、
どれもが私のイメージにほんとうにぴったりきたのです。
いえ、それ以上に賢治の世界を美しく表現してくださっています。

降り注ぐ光のかけら
二十日月夜を行く龍之助の後ろ姿、
種山ヶ原の草の海雲の海
稲の苗を持って踊る生徒たち
激しく揺れる扇と飾り羽根
コミックオペレットの役者の影
すべてすべて目の前に見えるよう・・・
デンシンバシラの行進はじつに楽しい!

なかには何度聴いてもそこで感極まってしまうものもあり
詳しく書くと、鑑賞のじゃまになるといけないのであえて書きませんが
どうしてもうるうるしてしまうところがあります。

とってもお茶目なアレンジの曲もありますし
そうそうきっと生徒たちにこうやって歌わせたに違いない、と思う曲や
まるで賢治自身が歌うかと錯覚してしまい
これまた自然と目の前が涙で霞んできてしまう曲・・・

余計な飾りや仰々しいデフォルメはなく、基本はシンプルだけど
そこかしこに素敵なアイテムやエッセンスが隠されていたり
心憎いまでの演出、さりげない装飾、心地よいリフレイン・・・
聴き込めばもっともっと発見がありそうです。

これまで「歌曲の部屋」の各曲を聴いていながら
素晴らしい部分を聴き過ごしてしまっていたことを
本当にもったいないことをしたと悔やんでいます。

賢治の歌曲に興味がおありの方はぜひ、
PCでなくちゃんとしたスピーカーで聴いてみてください。
きっとイーハトーブへの素敵な旅に連れて行ってくれるでしょう。
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by signaless5 | 2010-02-23 17:57 | 音楽

『イーハトーブ温泉学』

岡村民夫さんの『イーハトーブ温泉学』(みすず書房)をやっと読み終えました。

私は複数の本を同時に読みます。
病院などの待ち時間に読む本、
料理を作りながらでも読む本、
寝る前に読む本、
自分のための時間を作って、じっくり読む本・・・など。
出かけるときには必ず本を持つ様にしてから
読める本の数が断然増えました。

その中の「じっくり読む本」に入るのはやっぱり賢治関係の本です。
この『イーハトーブ温泉学』ももちろんそのひとつ。

じつに面白かったです。

これまで賢治と温泉といえば
子供の頃に大沢温泉の夏期の仏教講習会に参加したこととか
花巻温泉なら、あまりよい感情をもっていなかったが
花壇は造ったことがあるとか
そのくらいの認識しかありませんでした。

しかしこれほど賢治が温泉と深く関わっていたとは・・・!
考えてみれば当然かもしれませんが
これまで誰も、当たり前のようにそこ(花巻)にある「温泉」というものと
賢治とその作品との関係を取り上げるひとがいなかった、ということは不思議なことです。

私も花巻に行っても、現在の静かな表面しか見えていませんでした。
しかし、その地面の下には「生きた大地」が息づいているのだということ。
花巻の歴史、花巻の温泉街の歴史
賢治の生きた時代を、肌で感じるように知ることができました。

賢治の精神は、温泉・火山の上に生まれ育まれたのです。
そして作品も深く関わっている。
どの作品も、表面的には見えなくてもその地面の下には必ず地脈水脈がある。
そこかしこに温泉を吹き出してもおかしくないものを孕んでいる。
そんな気さえするようです。

リゾートとしての温泉、特に花巻温泉との関わりも
一言で開発に懸念を持っていたとは言えない複雑なものがあったのですね。

この本の魅力の一つに豊富な写真資料があります。
賢治が生きていた頃の古い花巻温泉などの写真など。
私は見開きいっぱいの、昭和初期の花巻温泉のほぼ全景の写真に
とても感慨深いものを感じました。
感動して涙が出そうになりました。
賢治が実際に造った「日時計花壇」や「対称花壇」などがはっきりと
そこに映し出されていたのです。
幻の「三角花壇」もありました。
賢治の生きた足跡がそこにありました。

賢治がここに描こうとしたものは
なんと素晴らしいものだったでしょうか。
今でこそ、ガーデニングデザイナーという職業がありますが
賢治はその時代にすでに現代でも充分通用する
斬新な美しい、調和と主張をもったアートを造りだしていたのです。
「南斜花壇」は文字通り斜面に造られ
他の花壇からはお互いに見られあう位置になっていたとか。

やはり賢治は「魔法使い」だったかもしれません。

ほかにもたくさんこの本に教えられたことはありますが・・・
テーマが温泉だったからか(?)
この本を読んでいる間中、
ずっと、温泉に浸かっているような
不思議な温かい心地よさのようなものを感じていました。

賢治と大地とのつながり。
イーハトーブとは何か。どんなところか。
少しそれがわかったような気がします。

たくさんのことをもらったような気がしますが
きっとまだまだよく理解できていないところもあると思います。
読み終えたあとでもう一度読み返したい、と思う本にはなかなか出会えませんが
これはその一つです。
たぶん何度でも読み返したいと思うかもしれません。

じつに面白かったです。
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by signaless5 | 2010-02-19 19:28 |

超立腹!

腹の立つことがふたつ。

私は普段あまり人に対して怒る方ではないと思うのですが・・・
(ホントかっ?)

どちらも国語の教師に関して。

先ず一つ目。
学校図書館に関わっている友人がいるのですが、
その人が教えてくれたある研究指導授業の時のこと。
教材は賢治の「注文の多い料理店」。
指導する先生は子供たちに
「さつき一ぺん紙くづのやうになつた二人の顔だけは、東京に帰つても、お湯にはいつても、もうもとのとほりになほ」らなかったのは、なぜか。
と問うたそうな。
そして、その「正解」として
大人は簡単には変われないから」とどうしても導きたかったらしい。
これでは生徒たちも指導される側の先生も
納得できるはずはない。
子供たちがそれぞれ違うことを感じても
それを「不正解」として切り捨てられる「国語」っていったい、
なんなんでしょうか。

そしてもう一つ、主人が小学生の時の話。
主人はその先生が大好きだったらしいが
授業で宮沢賢治をやることになった時のこと。
「やらなければいけないので、取り上げるが
俺は宮沢賢治は認めん。」
と言いながら教材を配ったと・・・。

お陰様で、主人は今でも
宮沢賢治は好きではない。

「国語」の授業っていったい
なんでしょうか。
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by signaless5 | 2010-02-15 09:33 | 賢治

2月8日

今日2月8日は
賢治の心友であった保阪嘉内の命日です。

「何を泣いているんだ。人は皆、こうして土に還ってゆくのだ。」

そう言い遺し、41歳の若さで逝ってしまいました。
嘉内らしい言葉ですが
まだまだやりたいことがあったはずです。

それになんとしても
幼い子供たちを残していくことが
一番辛いことだったでしょう。

しかし賢治もそうですが
嘉内もまた、彼を知り、想う人の心には
いつまでも生きているのだと思います。
(もちろん、私の心にも。)

会ったことはないけれど
(会ってみたかった!!)
嘉内という人のことは
私の心にもしっかりと刻まれてしまったのですから。

・・・嘉内さん、なんて寒い季節に
     あなたは逝ってしまったのでしょうか。
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by signaless5 | 2010-02-08 12:17 | 嘉内

但し今後の繋累は断じて作らざる決心に御座候

大正7(1918)年、9月27日 保阪嘉内あて書簡88の中の一文です。
少し前のことですが、この書簡を読んで
この部分に愕然としてしまいました。

これまでもこの書簡は何度も読み、
たしかこのようなことについて
読んだか何かした記憶もあるのですが・・・。
実感としてわかってはいなかったのだと思います。

賢治22歳。
ちょうど、稗貫群土性調査実地調査を完了した時です。

その前後の書簡を見てみると
嘉内あては83aの8月推定のものがその前で
書簡89の10月1日消印の葉書が後です。
いずれもふつうの口語体で書いてあり
この書簡88だけが候体で、違和感すらあります。

前後の83aと89には共通して
「落ちぶれる」という言葉もあります。

先が見えない不安と焦り、
葉書(書簡84)で河本義行につぶやいた淋しいこころ。

そんな中で、文中でも、この一行
「但し今後の繋累は断じて作らざる決心に御座候」
というのは唐突です。

なにゆえに
賢治はこのような決心を
早々と持つに至ったのでしょうか。

筆が滑った、若気のいたり、とかいうことではなく
ちょうど調査が終了した報告もかね、
改まって今後の身の振り方を
嘉内に伝えたかったのかもしれません。
それだけに賢治の決意の重さを感じるのです。
この時の“決心”が、賢治の一生を貫いていたのだという気がします。

そうだとすれば
「なぜ」という気持ちと
たまらなく切ない気持ちで
胸が締め付けられるようです。

これまで私は
愛する者を失う体験から
他者と深い繋がりを持つことを避けるようになったか、とか
羅須地人協会の活動するうちに
結婚を断念していったように私はとらえていましたが
そうではなく
賢治はもっと早いうちに
自分は誰とも結婚はしないと決めていた・・・。

やはり愕然とせずにはおれないことでした。


 ※<追記> この記事を書いた直後、賢治のこの書簡においての「繋累」の意味について、これを“妻子”とすることには大いに疑問があるという指摘を頂きました。私も知識&勉強不足であり自信を持ってこうだとはいいきれません。ただ、私としてはやはり賢治はけっこう早い時期から自分の結婚についてはあきらめるという方向にあったのではないかという思いは捨て切れず、あえてこのままこの記事は残すことにしました。

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by signaless5 | 2010-02-04 13:02 | 思うこと