The Azaleas

1917(大正6)年の今日、
宮沢賢治、小菅健吉、河本義行(緑石)、保阪嘉内、の4人は
盛岡の中の橋のたもとにあった奈良写真館(1902年から1933年まで開業)で
揃って写真を撮りました。



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だれが最初に4人で写真を撮ろうと言い出したのでしょうか。
この日は水曜日ですが
学校で天長節拝賀式が行われた、とあります。
偶然か、それともわざわざ選んでこの日にしたのかな・・・?

私はこの「天長節」というのが何かを知りませんでしたが
「天皇誕生日」だそうです。
ただし、大正天皇は8月31日生まれ、
暑いさなかに式典行事は大変だということで
2ヶ月遅く設定したとか・・・。

この写真を見るたびに
4人それぞれに見入って
ついあれこれ思いにふけってしまいます。

カメラ目線なのは賢治だけ・・・というのも
面白いですね。

様々に出回っているこの写真、
コピー(?)の陰影の具合で、4人の顔が違った印象に見えますが
美しく印刷されたものでは、それぞれの表情がとてもよく分かります。
ほんとうに今にも動き出しそうな気さえします。

そういうものだと、
賢治は穏やかで聡明で爽やかな
とてもいい顔をしているんですよ(^^)
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by signaless5 | 2009-10-31 10:31 | アザリア

インドラの網(その2)

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「インドラの網」についてもう少し。

私はこの「インドラの網」というのは、
いったい何のことなのか、
よく解らない感じがずっとありました。

あるいはインドラの宮殿を覆う網であるとしても
空にかかる網とはいったい、なんだろう。
この場合は賢治の想像?空想?幻覚?
それにしても不思議な感じ。

ところが最近、新聞のあるコラムで
「帝釈天がかけた網」について書かれているのを読み
なるほど、そういうことだったのかと合点がいきました。

それは仏典のたとえで
要約すると
帝釈天が世界に網をかけた。
その網目は他の編み目と無限につながっていて
その全体が網である。
個が単に集合して全体なのではなく
個の限りない「関わり合い」の総体が全体である。
たから網がなければ網目もないが、網目が一つでもなくなると網もなくなる。
これは仏教の縁起の社会観である。
・・・ということだそうです。
「帝釈天」とはインドラのことです。

確かに私たちは他との関わり合いなくしては生きられない。
どんなに引きこもろうと
たとえ無人島に置かれようと
その人がそこにある、つまり生を受けたというそのことだけ見ても
その人の存在自体、他と切り離してはあり得ないこと。
もっと広い意味で宇宙全体としてとらえても同じ事であり
人間だけでなく、あらゆる生き物、物質との関わりなくして
なにものも存在はできない・・・。

・・・ということだと思います。


賢治がどういう風に「インドラの網」をとらえていたのかはわかりませんが
ただ幻想としてインドラの宮殿を覆う光の網を想像するのと
そういう意味を持った網を想像するのとでは
また作品に対する味わいの深さも変わってくると思うし
賢治の「想い」のようなものに対する感じ方もちがってくるかもしれません。
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by signaless5 | 2009-10-30 12:38 | 童話

インドラの網

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ひさびさに読んだ賢治の『インドラの網』。

なんという美しい描写でしょうか。

夢とも現ともわからない世界。
黄昏時、魔法の時間に入り込んだか
疲れた「私」が見た幻想か・・・。

秋風の昏倒のなか
暗いこけももの敷物(カアペッット)を踏んでツェラ高原を行く・・・
過冷却水をたたえた湖
ぷりぷりふるえる宝石のかけらの散らばる天盤

そこでは時間の感覚さえもないようで
やがて空気の中にそらぞらしい硝子の分子のようなものが浮かぶと
空は鋼青から天河石の板に変わり
冷たい桔梗色の空間を
光る瓔珞をつけ、うすい衣を少しもみだすことなく翔ける天人・・・

壁画の中の3人の子供たちとともに
燃え立った白金のそらに太陽を拝めば
すっかり青ぞらに変わった天頂から
四方にはられたインドラの網の交錯の光を見る・・・
天の風の太鼓の鳴っていながら少しも鳴らないその向こうには
蒼い孔雀が宝石製の尾ばねをひろげる・・・・

孔雀はたしかにいるのに少しも見えず
「私」は、草穂と風の中に白く倒れている自分のかたちを
ぼんやりと思い出した・・・・・

ぼんやりと“思い出した”のだ・・・。


ため息がでるような作品。
どうすればこんなものが書けるのかと

こんなに美しい話だったかと

感嘆するほかない。
賢治を「天才」と呼ぶことには抵抗があるけれど
これは「天才」と呼ぶしかほかに言葉が見つからない。
こんな表現はほかの誰にもできはしないだろう、と私は思う。

読みながら私は賢治の声を聴くような気がしてならなかった。
聴こうとしたのではなく、
活字を追うと自然に、賢治の声が聴こえてくるような気がしたのだ。

こんな作品を読まされて
私は
ドキドキせずにはいられない・・・
せつなくならずにいられない・・・
求めずにはいられない・・・

「宮沢賢治」という魂。
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by signaless5 | 2009-10-29 20:26 | 童話

いわさきちひろ展

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    赤いシクラメンの花は
    去年もおととしもその前の年も
    冬の私の仕事場の紅一点
    ひとつひとついつとはなしにひらいては
    仕事中のわたしとひとみをかわす

    去年もおととしもその前の年も
    ベトナムのこどもの頭の上に
    爆弾はふった

    赤いシクラメンの
    その透き通った花びらのなかから
    死んでいったその子たちの
    ひとみがささやく
       あたしたちの一生は
       ずーっと戦争のなかだけだったのよ


先日、いわさきちひろ展に行ってきました。

平日だというのに、たくさんの人で賑わっていました。

淡い水彩画の美しさは
ため息が出るほど。

ちひろさんの描く絵は
最初から挿絵という枠を越え、はっきりと何らかのメッセージをもった芸術だった
というような気がします。

ちひろさんの描く子供たちは
まっすぐに大人を見ています。

「戦火のなかの子どもたち」のコーナーで
気づけば涙が流れていました。
大人たちが起こした戦争で死んでいった
たくさんのたくさんの子供たちの
魂の叫びが聞こえるようでした。

どんな技術をもってしても
原画と印刷の色合いは違います。
透明感が違います。

絵画を見る機会があれば
ぜひ本物を見て欲しいと思います。

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                  「ゆびきりをする子ども」


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                  「子犬と雨の日の子どもたち」 
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by signaless5 | 2009-10-24 19:19 |

賢治の感情がなぜ、「冬のやうな工合」になってしまったのか。

嘉内にかなり厳しいことを言われたのでは、と書きましたが
やはりかなりのことだったのだと思います。

それはsoraさんもコメントをくださったように
国柱会に入る入らないとかいう次元のことではなく
賢治の今後の生き方、考え方に大きく関わることだったのだと思います。

その頃の賢治は、といえば・・・。
せっかく高等農林を出たのに、少しもそれを活かせず
嫌悪する家業を手伝わざるを得ない状況でした。
望みの職業につくこともできず
他のかつての親友たちのように兵役にさえつけず
肋膜炎や心臓が悪いと診断され自分の命もあと15年もつかどうかもわからない不安を抱き
暗い店先で古着に囲まれて貧しい農民を相手に
商売をしなくてはならない生活。
その頃の嘉内あての手紙を読むと
もう半分はノイローゼのような状態です。
誰にも言えない思いのうちをはき出せる相手、すなわち嘉内がいなかったとしたら
賢治はほんとうにどうなっていたことでしょうか。

そしてついには、どうにもぎりぎりの所に来てしまい
とうとう、着の身着のまま、家を出て
東京行きの汽車に飛び乗ってしまいました。
1月23日のことでした。

それまでの間、二人は
将来について、
宗教、願いや理想、自分たちのなすべきこと、
進むべき道について、
書簡のやり取りなどで話し合ってきました。
二人が東京でなにかをしようとしていた様子もうかがえます。
目指しているところは同じでした。

ただ、賢治は、どちらかといえば
理想ばかりで、実生活が追いついていないということがあったのではないでしょうか。
親を説得もできず、家出という形。
なにか具体的な設計図があるわけでもなく
ただ法華経への熱意と強い信仰心があるだけで
しかもなぜか唐突に国柱会に入ってしまい、嘉内にもそれを切望する。

嘉内は嘉内で、自分の道を模索していましたが
嘉内が「自分も東京へ出る」といえば、それを止める賢治がいる。
嘉内は非常に戸惑ったに違いありません。

再会した二人に
激しい口論があったことは可能性としては充分あります。
(あれだけの激しい勧誘を拒否するには
ちょっとやそっとの「お断り」では無理のような気もします)

宗教のことだけでなく
嘉内が悩んでいたらしい事柄についても
賢治があれこれ言ったかもしれません。


じゃあ、君のしていることは何?
いったい何をしようとしているのだ。
俺は国柱会には入らない。
法華経だけがそれ程素晴らしいというなら
それを誰にもわかるように証明してみせてくれ。
説得もできずに親を捨て、兄弟を捨て、
それでもやろうとしていることは何?
それが本当にただしい道なのか。
世界を幸せにすると言っても、君はそのために何をしているのだ。
いつまでもそんな生活が続くわけはない。
どんな具体案があるのだ。
どんな計画をたてているんだ。
俺を心底納得させてくれ。
人のことを言う前に、もっと自分のことを見てみろ。
今の君に、いったい何が出来るんだ。

(な~んて感じでしょうか。
自分で書いていて、きついよな~と思ってしまいましたが・・・。)

でも、きっと、こんな風なことを突きつけられたに違いありません。
なぜなら、この時を境に
賢治は変わったからです。

家に帰ることを考えはじめ
妹の病気という理由(?)を得て帰花してからは、
親が世話をしてくれた農学校の教師という職につきます。

「冬のスケッチ」を経て
「心象スケッチ」なるものつまりは詩を書き始めますが
それら作品の底に流れているのは
友から離れ、ほんとうの道を模索し、
一人歩き続けなければならない賢治の淋しさではないでしょうか。

ただ、友から離れたといっても
それは全くの訣別ではなく
ふたたび真実の頂の上で出会うために、
それぞれの場所から道を求めて歩き続けるのだ、といった
いわば、嘉内を求める旅。
賢治は、真実を証明してみせることが再び嘉内に出会うことだと
そんなふうに、思っていたのではないかと私は感じます。

『春と修羅』にはときどき「証明」という言葉や、そういうニュアンスのことばがでてきます。
賢治が「正しいこと」を証明してみせたかったのは
嘉内に対してではなかったでしょうか。

でなければ、たとえばトシさんは賢治の最愛の理解者でしたが
彼女にはなにも証明しなけらばならないことはないのです。
なにも言わなくてもお互いにわかりあえたからです。
自分の主張に、素直にうなずいてくれたからです。
トシの死によって、大変な喪失感はあったでしょう。
けなげな妹は、いったいどこに行ってしまったのか。
俺の進もうとしている道が、間違いとわかるなら、
はっきりそこから教えて欲しい・・・。

賢治がほんとうに迷いがなかったのなら
そんなことを死んだ妹に尋ねるでしょうか。
なぜ迷いがあったのか。
それは嘉内に鋭く突かれた、その言葉がいつまでも響いていたからでしょう。
嘉内に対する答えが、はっきり見つからないからでしょう。

賢治と嘉内は決して「訣別」したわけではなく
手紙や、本や資料のやりとりを
その後もずっと続けていたようです。
嘉内のもとに、その後に賢治から送られたものが多数あったそうですし
嘉内は、自分が講師を務めた場所で
農村青年たちに賢治についての講義をしているからです。

嘉内が帰農してほどなく
賢治も学校を辞める決意をします。
嘉内への報告の手紙(1925年6月25日)に
「来春はわたくしも教師をやめて本統の百姓になって働きます」とあります。
「わたくしは」でなく「わたくしも」とある、そのたった一字のちがいに
私は大きな意味を感じます。
あれほど楽しく、性分にあった農学校の教師という職を捨ててまで
農民の中に飛び込んでいった理由とは
やはり、お互いのほんとうに信ずる道を進んでいくべきだという
賢治の決意、嘉内への賢治なりの、答えのうちのひとつ
あるいはこの時点での経過報告のようなものではないでしょうか。

そして、その後に賢治が歩んだ道は
ご存じのように「みんなのほんとうの幸い」を求めるものでした。
そしてそれは
かつて賢治と嘉内、ふたりきりで岩手山に登った時に
お互いに堅く誓った道ではなかったでしょうか。

これまで「訣別」といわれてきたことは
決して「訣別」などではありません。
そのときの賢治にとっては
非常にショックで痛いことだったかもしれませんが
あの「激論」がなければ、その後の「賢治」はなかったかもしれません。
遠くで嘉内はいつも賢治のことを見ていたはずです。

賢治がはたしてどこまで自覚していたかはわかりませんが
嘉内は賢治にとって永遠に、究極の友情をもった相手だったのではなかったでしょうか。

たしか、大島に伊藤兄妹を訪ねたときだったでしょうか、
山梨まで脚を伸ばすつもりでいて
急に気が変わってそのまま帰ってきてしまいます。
その理由はわかりませんが
賢治がまだ嘉内に会うのは早い、
自分はそこまでに至ってはいないと考え躊躇したのだとしたら・・・

なんだか切なくなってしまいます・・・。
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by signaless5 | 2009-10-22 18:03 | 賢治

冬のやうな工合

大正10年8月11日関徳弥あて書簡には
賢治が肉食をして脚気になってしまったことが書かれています。

七月の始め頃から二十五日頃へかけて一寸肉食をしたのです。それは第一は私の感情があまり冬のやうな工合になってしまって燃えるやうな生理的の衝動なんか感じないやうに思はれたので、こんな事では一人の心をも理解し兼ねると思って断然幾片かの豚の脂、塩鱈の干物などを食べた為にそれをきっかけにして脚が悪くなったのでした。然るに肉食をしたって別段感情が変わるわけでもありません。今はすっかり逆戻りをしました。」

賢治はこの時家出をして東京にいました。
7月の始めに、賢治に何があったでしょうか。

一般に賢治と保阪嘉内が久々に会って激論となったのは
嘉内の日記から
この年の7月18日ということになっています。
しかし、私は、二人が会ったのはもうちょっと早かったのではないかと思っています。

嘉内が上京し、入営したのは7月1日です。
賢治はさっそく3日付けで「私もお目にかかりたい」との葉書を出しました。
「私も」とあるところを見るとその前の書簡で
嘉内のほうから、「上京したら会いたい」とでもあったのでしょう。
賢治のこの葉書には、よろこびを隠しきれないようなものを感じます。

そしてその次に新校本全集にあるのは7月13日、関徳弥あて封書。
なぜかこの文面の調子は一転しています。
「・・・私の立場はもっと悲しいのです。」
「今日の手紙は調子が変でせう。
斯う云ふ調子ですよ。近頃の私は。」

賢治は嘉内に会いたくて仕方がなかったと思います。
やっと、直接会って、話ができる、
もう一押しで嘉内も国柱会に入ってくれるはずだ・・・。
そういう意気込みだったのではないでしょうか。
そんな賢治が、3週間近くもだまってまっているとは思えません。

これらのことから
やっぱり賢治と嘉内が会ったのは
嘉内が上京してからほどなく、遅くても10日くらいまでの間ではないでしょうか。
それなら「七月の始め頃から二十五日頃へかけて」のつじつまも合います。

恐らく、賢治と会った嘉内は
それまで執拗にくり返し国柱会入会をせまっていた賢治に対し
かなり厳しいことを言ったに違いありません。

嘉内は決していい加減に賢治を突っぱねたわけではなく
様々な角度から誘いかける賢治の言葉に心を動かされながらも
やっぱりどうしても納得できかねるところがあり
自分を誤魔化すことができなかったのではないでしょうか。
親友に同調するのは一見友情を守るように見えますが
違うと思うことは違う、とはっきりいうことこそほんとうだと、
そう考えたのではないでしょうか。
そして嘉内は、激論の末、賢治の弱点を突いてしまったのでしょう。

賢治の心が一瞬で冬のようになってしまった、
その時の場面が目に見えるようです。

嘉内の日記の、7月18日に「宮沢賢治面会来」とありバッテンがしてある、
その意味はよく解りませんが
その日にもまた二人が会ったのかどうか・・・。
来るはずが来なかったのか。
来たが会えなかったのか。
会ったけど、更にお互い傷を広げてしまったのか。

まぁ、その「激論」があったこと自体も
当人達がどこにもその事について具体的に書き残したものがないので
想像の域を超えませんが
賢治の「冬のやうな工合」になったことを考えると
その可能性は大きいような気がします。

『宮沢賢治の青春』(宝島社)で菅原千恵子さんは
13日の関徳弥あて書簡については
再会を前にして賢治の心が揺れているのは
その前に嘉内から「賢治にとって人生の目的、その望みや願いとは具体的にどんなことなのかを
再会を前に問うてきたのではなかったか。」と述べています。

しかし、それまでさんざん、法華経あるいは国柱会について
説いてきた賢治が、手紙による問いかけくらいで
それほど動揺するでしょうか。
それならば、これまで長い間そのことについてやりとりしてきた中でも
とうに、そうなっていてもおかしくはないはずです。
なにも、東京で、しかも会う直前ではなくても。

「私の立場はもっと悲しい」
「信仰は一向動揺しません」
といいながら、何の動揺かは聞かないでくれという。
それは、もし言ってしまえば、これまで自分が徳弥に言ってきたことまでも
信用のなくなるようなことだったからではありませんか。
自分の望みや願いがわからなくなってしまうほどのこととは
単に、はっきり教えてくれ、といったようなことではなく
根本を、完全否定とはいえないまでも、大きく揺るがされるようなかなり強いものを
突きつけられてのことだと思います。

そういうことからも
やっぱり、手紙での問いかけではなく
早々に、直接に会ったのではないかと、私は思います。


賢治は、最後に「この紙の裏はこわしてしまった芝居です。」
と結んでいます。
その手紙の裏には「蒼冷と純黒」が書かれてありました。

それは賢治と嘉内の分身のような戯曲の一部です。
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by signaless5 | 2009-10-21 18:49 | 賢治

賢治と南吉(その2)

昨日からの続きです。
新美南吉について少し調べてみました。

新美南吉記念館の年譜にはこうあります。

 4歳で母を亡くし、6歳のとき継母を迎え、8歳で養子に出されました。


南吉自身が書いた小説の一部も載っていました。

 -略-   それはまだ彼が町にいた頃、近所の鍛冶屋の子と遊んでいた時その子の母親が言った言葉であった---「伸ちゃは、いはば要らん子だ、後から来たおっ母ちゃんに子供衆が出来なすったで。」   -略-

(「川」Aより)


 常夜燈の下で遊んでいるところへ、母が呼びに来て家につれられて帰ると、初という人が私を待っていた。少しの酒と鰯の煮たのとでささやかな儀式がすんで、私は新しい着物を着せられ、初という人につれられて、隣村のおばあさんの家に養子にいったのだった。
 九つだったか十だったか。
 おばあさんの家は村の一番北にあって、背戸には深い竹薮があり、前には広い庭と畑があり、右隣は半町も距たってをり、左隣だけは軒を接していた。そのような寂しい所にあって、家はがらんとして大きく、背戸には錠の錆びた倉が立ち、倉の横にはいつの頃からあったとも知れない古色蒼然たる山桃の木が、倉の屋根と母屋の屋根の上におおいかむさり、背戸口を出たところには、中が真暗な車井戸があった。納戸、勝手、竈のあたり、納屋、物置、つし裏など暗くて無気味なところが多かった。家は大きかlったが電燈は光度の低い赤みがかったのが一つしかなかったので、夜は電燈のコードの届かない部屋にいく時、昔のカンテラを点してはいっていった。 夜はもちろん寂しくて、裏の竹薮がざあざあと鳴り、寒い晩には、背戸山で狢のなく声がした。昼でも寂しかつた。あたりにあまり人がみられなかつた。
 おばあさんというのは、夫に死に別れ、息子に死に別れ、嫁に出ていかれ、そしてたった一人ぼっちで長い間をその寂莫の中に生きて来たためだらうか、私が側によっても私のひ弱な子供心をあたためてくれる柔い温ものをもっていなかった。

(<無題>「常夜燈の下で」より)



4歳で母を亡くし、6歳で継母を迎え、その継母に子供、つまり弟ができる。
その後、おばあさんに引き取られ、ぬくもりのない家に二人きりで生活をした。

・・・なんという淋しい子供時代でしょうか。

子供には無条件で受け入れてくれる人が必要だと思います。
必ずしも本当の親でなくてもいい、
無条件で愛してくれる人の存在があってこそ
こころは満たされ安定し、困難に立ち向かっていく力を育むことが
できるのではないでしょうか。
そうして環境や他人に左右されない本当の「自己」というものを確立していくことが
できるのではないでしょうか。

自分はいなくてもいい存在、
いてはいけない存在、
誰からも必要とされない存在・・・
そんな風に感じながら
それでも誰かにすがって生きなければならない子供だったとしたら。

無意識のうちに奥深いところにあるものが「自己否定」になってしまっても
仕方のないことだと思います。

南吉は成績がよかったそうですが
自分を認めてもらおうと必死でよい子になろうとしたのであったなら
なんともけなげで哀れなものを感じます。

もちろん、子供の頃そういう想いをしながらも
大人になるにつれて様々な出会いをくり返しながら
かけがえのない愛情を得て
幸せに暮らしている人はたくさんいると思います。
逆境をバネに、立派になった人もたくさんいると思います。

南吉も、その短い生涯のうちに
すぐれた童話や作品をたくさん残しました。

同じような境遇の子供が、南吉のことを知って
自分にも、なにかできるかもしれない、
と勇気をもらえるかも知れません。

とはいえ、やっぱり、子供はみんな
愛情を充分与えられ、幸せに育てられることが望ましいと思います。

南吉のお話が、なんともいえない悲しみに満ちているのは
彼の幼少の育ち方が
大きく影響しているのかもしれないと感じました。
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by signaless5 | 2009-10-20 09:00 | 童話

賢治と南吉

昨日は私が所属している読書会の例会でした。
本を中心に、時には句をつくってみたり小旅行にいったりという
自由な活動をしていますが
細く長く・・・の会なので、
毎回集まるメンバーも数人の
こじんまりかつのんびりした会です。

さて、今月は「宮沢賢治」でした。
賢治のことなると、つい、熱が入ってしまう私ですが
何事においても知識があるからといって
必ずしもいいというわけではありませんね。

私などよりずっと様々な分野やたくさんの作家の作品に通じているメンバーが
面白いことをいいました。

賢治になぜ惹かれるのか、なぜ、こんなに広く求められるのか
ということについて、

 賢治は「肯定」の文学で、自分というものを受け入れる、
 ということが根底にある。
 賢治の作品を、必ずしも充分理解し追いつかなくても
 向こうから手をさしのべてくれる。救われ、癒やされる。

 対照的に新美南吉の作品は、「否定」であり
 最後には死や破壊となり、自己を否定した文学で、
 (例えばごんぎつねの死、おじいさんのランプの破壊)
 叙情的ではあっても、救いがない。悲しくなる。

というのです。
一概に決めつけることは出来ませんが
なるほど、そういう見方も面白いかもしれない・・・と思いました。

確かに「よだかのほし」や「グスコーブドリの伝記」も最後には死を迎えますが
みんなの幸いを願ったその先には「救い」が待っています。


こんな記事を書くと、南吉ファンに怒られそうですが・・・。
でも、私は新美南吉も好きですよ。
そこには優しさとか思いやりも描かれているのですから。

もうちょっとその二人の違いについて
追求してみるのも面白そうです。
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by signaless5 | 2009-10-19 09:24 | 賢治

どんぐりと山猫

小学生の娘が「どんぐりと山猫」を読みたいというので
本を見せると、読めないといいます。
習っていない漢字が多い、というのです。
と、いうのは言い訳で、ほんとうはめんどうなのかもしれません。
(実はうちには賢治の「絵本」というものがほとんどありません。)

そこで、久々に、寝る前に読んでやることにしました。

読んでいるうちに、
なんだか胸がいっぱいになってしまい、読む声が止まってしまいました。
娘がけげんな顔をするので
あわててお話に集中するようにしましたが・・・。

賢治についての研究書や論文などを読むことはあっても
童話をじっくり読む、ということは少なくなりました。
でも、それはまるで本人のいないところでその人の話をしている
ということに似ているような気がします。

文字を追っているうちに
このひと言ひと言が、すべて賢治の頭の中で生まれたもので
ずべて賢治自身の言葉なのだと思ったら
それはまるで、もう、自分がいま、
賢治自身と話をしているのと同じというような気がして
賢治が私に話しかけているのだと感じて
胸がいっぱいになってしまったのです・・・。



山猫:「裁判ももうきょうで三日目だぞ。いい加減に仲なおりしたらどうだ」
どんくりたち:「・・・なんといったって頭のとがっているのがいちばんえらいんです」「いいえ、ちがいます。まるいのがえらいのです・・・」がやがやがやがや
山猫:「やかましい。ここをなんとこころえる。しずまれ、しずまれ」

これが三回繰り返されるのですが
読んでいるうちに思わず吹き出してしまいました。

賢治が清六さんと喜劇を見に行って
同じことを三回繰り返すことが笑いのパターンだと言ったというようなことを
何かで読んだ気がしますが、
賢治もここでちゃんとそれを使っているというわけでしょうか・・・。

なぜか今まで気にも留めていなかったことですが
声を出して読む、ということも、いいことかもしれません。

娘に読んでやるつもりが
自分によんでやった、というような感じになってしまいました。
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by signaless5 | 2009-10-18 10:39 | 童話

カムパネルラ

引き続いて「銀河鉄道の夜」について。

面白いことに、最終形と初期形では
カムパネルラとジョバンニの関係は微妙に違っています。
最終形では、カムパネルラとジョバンニは親友でした。

ところが初期形では、カムパネルラはジョバンニの一方的な
あこがれの対象なのです。

そして、天気輪の丘に登ったところで
初期形にはこんな独白があります。

(ぼくはもう、遠くへ行ってしまひたい。みんなからはなれて、どこまでもどこまでも行ってしまひたい。それでも、もしカムパネルラが、ぼくといっしょに来てくれたら、そして二人で、野原やさまざまの家をスケッチしながら、どこまでもどこまでも行くのなら、どんなにいいだらう。カムパネルラは決してぼくを怒ってゐないのだ。そしてぼくは、どんなに友だちがほしいだらう。ぼくはもう、カムパネルラが、ほんたうにぼくの友だちになって、決してうそをつかないなら、ぼくは命でもやってもいい。けれどもさう云はうと思っても、いまはぼくはそれを、カムパネルラに云へなくなってしまった。一緒に遊ぶひまだってないんだ。ぼくはもう、空の遠くの遠くの方へ、たった一人で飛んで行ってしまひたい。)

それまでにカムパネルラがジョバンニを悪く思ったり
二人が喧嘩をしたりする場面などは出てこないので
この「カムパネルラは決してぼくを怒っていない」というのが
唐突に感じます。

これはどういうことでしょう。

このカムパネルラのモデルが主に
賢治の妹トシである、という人と
親友だった保阪嘉内であるという人があると思いますが

私は、やっぱり嘉内のことを投影しているのではないかと思います。
もちろん嘉内ひとりだけでなく、トシや他の人のことも
カムパネルラという人物には複合されているのだと思いますが。

賢治と嘉内は、一般に大正10年7月に「訣別」した、とされています。
それがほんとうにそうであったかは大いに疑問があるところですが
(その件については、別の記事で詳しく書くつもりです)
二人の間でなにかしらの議論はあったのではないかと思います。

そしてその後二人は、物理的にも、仕事や生活・活動の忙しさなどからも、
もうおたがいに容易に会うことはできなくなってしまいます。

カムパネルラは絵がとても上手だという設定ですが
保阪嘉内もまた、残されたスケッチ帳などを見ると
それは大変素晴らしいもので、才能があったと思います。

「二人で、野原やさまざまの家をスケッチしながら」とあるのも
嘉内は絵が上手であり、
また事象をまるでスケッチでもして歩くように短歌に連作したりしていましたし
賢治は「心象スケッチ」なるものを綴るようになった・・・
ということを思わせます。

そういうところからも私はやはり
カムパネルラは嘉内の部分が大きくて
賢治はほんとうはどこまでも嘉内と一緒に行きたいと
最後まで思っていたのではないかと感じるのです。
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by signaless5 | 2009-10-17 10:36 | 童話