検索ワード

このエキサイトブログというのは
「ネームカード」を作ると、
自分のブログに、どの言葉で検索して来てくれたかがわかるようになっています。

面白いのは「岡林信康 26番目の秋」というのがけっこう多いのです。
最近、ある新聞の夕刊にも取り上げられていましたが
岡林は若い人達の人気が出てきたそうなので
そういうところからかな・・・とも思います。

可笑しいのは「宮沢賢治 恋愛 変態」というのです。
これではまるで賢治が変態みたいですが・・・。
きっと、

  じぶんとそれからたったもひとつのたましひと
 完全そして永久にどこまでもいっしょに行かうとする
 この変態を恋愛といふ

という、賢治の詩のフレーズから
どういう意味なのかを探ろうとして検索されたものでしょうね。

そんな中で
私がとてもうれしかったのは
「ふらここ  河本緑石」
というのがあったことです。

でも、そういえば「保阪嘉内」とか「アザリア」とかが
あっても良さそうなものですが・・・・

あ、そうか。
それで検索すればきっと、
某素晴らしいサイトがすぐ出てくるから、ということですね。

他にはどのサイトからリンクして飛んできてくれたかも
わかるようになっているのですが
その「某サイト」さんから来てくださる方がけっこういます。
ありがたいことです。
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by signaless5 | 2009-07-21 16:47 | 思うこと

緑石忌

  死んで俺が水の中にすんでる夢だった

きょうは河本緑石(義行)が亡くなった日です。
昭和8年、緑石は勤めていた農学校の水泳訓練中、
溺れた同僚を助けたあと
心臓麻痺を起こし、自分一人で逝ってしまいました。

この句はその6年前に作ったそうですが
何か不思議な予感でもあったのでしょうか。

いつかきっと、緑石さんのすむ海を見にいきたいと思います。
青い青い海の中で
案外悠々と泳いでいるのかも知れません。
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by signaless5 | 2009-07-18 09:00 | 緑石

ふたつの信仰

(うまれでくるたて  
こんどはこたにわりやのごとばかりで
くるしまなあよにうまれてくる)

「永訣の朝」での妹トシのこの言葉は
前回の記事のように、
「自省録」を書かねばならなかったトシの心情がわかれば
非常に重いものとして感じられます。
ただ単に若くして逝かねばならなかった無念だけでなく
長い間トシを苦しめていたものがあったのです。


そしてそれを、じっと見つめていた兄。
あるいは時にはそれを知りながら
自分は「日のてるとこでたのしくはたらいたり
ほかのひとのことをかんがへながら森をあるいてゐた」
という罪悪感・・・。


大きな苦悩を抱くとき
そのよりどころとして信仰を求めるのはごく自然のなりゆきだと思います。
トシも、花巻で起こったある事件によって
おそらくそれまで何の屈託もなく、無邪気に明るく生きてきたところから
突然、奈落の底に突き落とされたようなものだったに違いありません。

山根知子さんの「宮沢賢治・妹トシの拓いた道」(朝文社)によると、日本女子大に入学後のトシは初代校長成瀬仁蔵の影響を多大に受け、メーテルリンクやエマーソン、タゴールなどに親しみ、
その宗教観も「最終的には既成の宗教の形にとらわれないでむしろそうした宗教の根底にある宇宙の生命と深く触れ、自己と宇宙とのただしい関係を得ることがめざされ」るものであったと思われます。

つまり、ひとつだけの宗教に囚われず、
それらが真に追求するもの、宇宙の真理、といったようなもの
それらが伝えようとする宇宙万物の根源といったらよいのでしょうか
トシが目指したのはそういうものだったのでしょう。

そうすると、今度はさらに違う疑問がわき上がってきます。
「無声慟哭」における
『信仰を一つにするたつたひとりのみちづれのわたくし』
という言葉。

そのとき賢治は
『あかるくつめたい精進(しやうじん)のみちからかなしくつかれてゐて
毒草や蛍光菌のくらい野原をただよ』っていたのです。

賢治は、「法華経」を信じていました。
そして南無妙法蓮華経を唱えた日蓮を信じていました。

大正10年3月13日 宮本友一あて書簡(191の1)では
「どの宗教でもおしまひは同じ処へ行くなんといふ事は断じてありません。
間違った教による人はぐんぐん獣類にもなり
魔の眷属にもなり地獄にも堕ちます。」
と言い切っています。


いったいこれはどういうことでしょうか。
妹は必ずしも法華経のみ絶対とは信じていなかった。
なのになぜ
『信仰を一つにするたつたひとりのみちづれのわたくし』
なのでしょうか・・・。


賢治がトシとの交信を求めて北への旅に出たのは
よく知られているところですが、
法華経のみを信じていたわけではなかったトシが
地獄に堕ちて苦しんでいるのではないかと
賢治が不安におちいり、
その後のトシの行く末を探ろうとした、というなら
それはわかります。


「巨きな信のちからからことさらにはなれ
また純粋やちいさな徳性のかずをうしなひ
わたくしが青ぐらい修羅をあるいてゐるとき」
というように、賢治にもまた、
迷いが生じていたということでしょうか。

けれども、生涯を通して賢治は
ひとに法華経を説きました。

信仰を一つにするみちづれ、とは
一つの宗教を信ずる、ということでなく
真の宗教を一緒に求める、という意味でしょうか・・・・。


考えれば考えるほど
私には難しいです。
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by signaless5 | 2009-07-16 19:38 | 思うこと

トシと自省録

賢治の妹、トシもまた「聖女」とされたうちの一人でしょう。

幼少時から兄賢治よりもよくでき、
優しくて兄思いの理想の女性のように扱われてきました。

家の中で、賢治の宗教=法華経を理解する「たったひとりのみちづれ」であり
まさに賢治の理想の女性であった、と。

自分が旅立つその時に於いても
兄や家族のことを気遣い、
けなげにふるまい続けた素晴らしい女性・・・。

たしかにそのとおりかもしれません。
しかし、聖女として崇められるトシはやはり
つかみ所のない、まるでお人形のような印象しかありませんでした。

聖なる賢治の妹は
同じように聖なる女性でなければいけなかったのでしょうか。


私がトシを、私たちと同じ血の通った一人の女性だと認識できたのは、
彼女自身がのこした「自省録」のお陰でした。

深い悩みと苦しみ、そして悲しみ。
そして深く深く、己を見つめる目。

これを母である賢治の末の妹クニさんの遺品のなかから見つけ
著書「伯父は賢治」で発表した宮沢淳郎さんは
『そえがき』のなかでこう書いています。

 《新資料公表にともなう弊害が予想されないでもない。その最たるものは、トシのイメージが崩れることである。伝記を見る限り、賢治を上回るほどの能力を持っていたと受けとられかねない神秘の女性のトシは、実はふつうの女子大生なみの文章を書く人間だったと分かって、あるいは失望する読者がいるかも知れない。少なくとも筆者はその口であった。》

果たしてそうでしょうか。
私はまったく逆だと思うのです。

菅原千恵子さんも、「宮沢賢治・15号(洋々社)」に寄せた文章「トシの『自省録』を通して見えたきたもの」にこれらのことを詳しく書かれています。
 《失望どころか、私はトシという女性に強く心を動かされただけでなく、それまで人形のようだったトシが、実は激しく強靱な意志と近代的な自我を持った女性であることにむしろおどろかされたのだった。》
私も、まったくそのとおりだと思います。

トシが、心ない誹謗中傷や裏切りに傷つき
逃れるように東京に出て日本女子大に入学したこと、
そこでも様々な悩みを持ち、
頼れるのは兄だけだと毎週のように手紙のやりとりをしたこと、など
これまで不自然に思われてきたことすべてに合点がいきます。

悩み苦しみながら自分を律し、
進むべき道を切り開こうと必死で努力していた姿こそが
真の「宮澤トシ」ではないでしょうか。

決して聖女でも菩薩でもない、一人の人間としてのトシは
失望どころか、兄賢治と同じように、地上に降りて初めて
心を添わせることのできる、心から共感できる女性となって現れたのです。



しかし、姉の遺した「自省録」を
末の妹に託したのはいったい誰だったでのしょうか。
母?賢治?それともトシ自身・・・?

亡き姉の魂の軌跡、
一人の女性としての真摯な生き様を伝えることによって
若い妹の心の糧となり、力となることを
強く願ってのことに違いないと思うのです。

男性である淳郎さんには、果たしてその事が
どこまでおわかりになられていたかは解りませんが
同じ女性(一応)である私にとっては、
このことも非常に感慨深いことです。
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by signaless5 | 2009-07-13 17:48 | トシ

もののあはれ

先の記事関連で、本居宣長のことを少し調べてみました。
身近な人物だったのに、恥ずかしいことに名前を知っていたくらいで
どういうことをした方なのかをほとんど知りませんでした。

「もののあはれ」を解いたのは宣長だそうです。

本居宣長記念館のHPから引用します。

「もののあはれ」とは、『石上私淑言』で宣長は、歌における「あはれ」の用例をあげながら、「見る物聞く事なすわざにふれて情(ココロ)の深く感ずる事」を「あはれ」と言うのだと述べている。つまり、揺れ動く人の心を、物のあわれを知ると言うのだ。歌や物語もこの心の動きがもとになる。たとえば、宣長が高く評価した『源氏物語』も、「この物語、物の哀れを知るより外なし」と言っている。文学はそのような人間の本性に根ざしたものであり、そこに存在価値があるとした。


「見る物聞く事なすわざにふれて情(ココロ)の深く感ずる事」を「あはれ」と言う。
つまり、作品やその人物、行動などにふれ、その心情を深く感じることにこそ
価値や意味があるのだということではないでしょうか。
そこから広がっていくもの、学ぶもの、自分の糧になるもの、
すなわち勇気だったり慰めだったり癒しだったり、
他人を思いやる心だったり、相手を理解しようという気持ちだったり・・・、
それらを得ることとそのよろこびがあるからこそ、
私たちは文学を求めるのではないでしょうか。

子供たちに、絵本や物語が必要だというのも
この「あはれ」を知ること、
賢治の言葉で言えば、「すきとほったたべもの」をたくさん得ることが
そのまま生きる力になり、
人生をたいへん豊なものにしてくれるからではないでしょうか。


賢治の話に戻れば、
ほんとうの姿を知ってこそ見えてくるものがあるはずです。
知りうる心情があるはずです。
それをあえて、隠したりゆがめたり、脚色したりすることは
冒涜であり罪ではないでしょうか。

とはいっても、なんでもかんでも明らかにせよ、
というわけでは決してありません。
その辺のことはまた追々、順番に記事にしていきたいと思っています。
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by signaless5 | 2009-07-11 09:27 | 思うこと

崇め奉り候

人を尊ぶことは大切なことです。

しかし、素晴らしい仕事をしたり、素晴らしい人格であったり
誰もが口をそろえて讃える人がいたとすると
かえってそれが当たり前のように感じ
その人はそういう人だから、凡人とはちがう、
何の苦労も悩みもなくそのように振る舞えるのだと
思いこんでしまいがちです。

それが特に、普段接する人でなく、
ブラウン管を通してとか
書物を通してしか知り得ない人であればなおさら
そのように思いがちです。

しかし、あまりに崇めすぎることは
逆にその人を侮辱することになる、と感じています。

誰のこと?何のこと?
と思われるでしょうか。

まさに賢治がそうです。
賢治は、天才でも聖者でもなく、ただの“人”だったと私は思います。
しかし、以前の、賢治を知った頃の私は、そのようには思っていませんでした。
それはこれまで伝えられてきた数々の「伝説」のせいかもしれません。
様々な分野の専門家が褒め称えてきた研究書のせいかもしれません。
とにかく、賢治は何か「特別な人」だととらえてきました。
そのように感じている間は、賢治はつかみ所のない、
ベールの向こうにいる人のようでした。

ところが、あることがきっかけで
その視点が大きく変わり、突然様々なことが見えてきました。
それは私にとって非常に感動的なことでした。

賢治も、私たちと同じ人間で、同じように
悩んだり怒ったり喜んだり楽しんだりするのだと心底理解できたとき
初めて本当に賢治を知り、賢治の心に添うことができたような気がします。


そしてまた、賢治を取り巻く人も同じです。
例えば清六さんです。
賢治の原稿を命がけで戦火から守った、といっても
私自身、それはどこかおとぎ話の武勇伝でも聴くようなそんな風にしか
とらえることができていなかったと思います。
しかし、清六さんについて最近書かれた物を読んだり
清六さんにとても近かった方の
お話を聞く機会に恵まれたりしたこともあって
清六さんが守ってこられたものがあまりに重いものであったことに
ようやく気付いたりしたのです。
清六さんもまた、ある意味、聖人や特別な人のように扱われてきたのではないでしょうか。

讃えることはよいことですが
その裏で、その人が人知れず抱いていた、
その苦しいもの、辛いものをも見えなくしてしまうのは
かえってその人を侮辱してしまっているような気がしてなりません。
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by signaless5 | 2009-07-10 17:10 | 思うこと

嘉内との出会い

私が嘉内と出会ったのは、実は、とても早い時期です。

賢治と出会ったのは、高校2年生の春頃。
嘉内との出会いも、ほぼそれと同じでした。

文庫本を何冊か買って賢治作品を読み始めたとき、
書店で見つけた一冊の本がどうしても欲しくなりました。
その時、持ち合わせのなかった私は
次の日におこづかいを握りしめて(?)買いに行った記憶があります。

それは保阪庸夫・小沢俊郎著「宮沢賢治 友への手紙」という本でした。
賢治と出会った年の、7月13日、夏休み前のことでした。

ごく最近になって、裏表紙に自分で書いた日付を見て、
こんなに早かったのかと我ながらとてもびっくりしたのです。
恐らく、私が買った作品以外の賢治本の、第一号でした。

この本は、ご存じの方も多いかと思いますが
賢治が嘉内に宛てた現存している73通の手紙を
詳しい解説とともに収録してあるものです。

手紙というものは、特定の人に宛てて書かれたものなので
仲のよい相手、気心の知れた相手であればなおさら
なにも包み隠さないストレートな表現だったり、
他の人には言えないようなことも書いたりします。
特にこれら賢治の嘉内宛の手紙は、
時にあまりに激しく、これでもかという程に、ありのままの自分をぶつけています。

それでも私は、それらを読みながら
嘉内を賢治にとっては「青春の日のかけがいのない親友だった」としか捕らえていませんでした。
あくまでも過去形で。

ところが、2007年秋。
山梨県立文学館で行われた「73通の手紙展」で受けた衝撃は
とても大きなものでした。
その時にも非常に感動しましたが
それ以上にあとからの余波の方が大きいような、
とんでもない不思議なものでした。

活字になったものを読むのと、
賢治の直筆の現物を見るのとは雲泥の差。
伝わってくるものがまったく違いました。

嘉内はありのままの賢治を、しっかりと受け止めていたのでしょう。
嘉内もまた、きっと、自身の悩みや迷いを赤裸々に綴ったことでしょう。
ふたつの魂が真っ向からぶつかり合う姿をそこに見ました。

私はそれまで長い間賢治を追いかけながら、
いったい何を見ていたのでしょう。
それまで漠然とわからなかったことや不思議だったことが
嘉内という人に光を当てることで、いっぺんに見えてきたのです。
嘉内が賢治に与えた影響の大きさに、やっと気付いたのです。

もちろん、ひとそれぞれ、感じ方や考え方もあると思いますが
私が長年、賢治を見つめてきた上で
ようやくたどりついたことです。
しかも、これは結論とかゴールではなく
ようやく『賢治』という人にたどり着いたスタート地点。
それまでは、まだ入り口にも立っていなかったような気がします。


賢治がいつもイメージしていた「ふたつがひとつになるもの」、
たとえば一本杉、例えば合流する川、やどりぎだってそうかもしれませんが
それらはみな、嘉内との交流を望んだ賢治の願いの現れのような気がします。


私が嘉内とほんとうに出会ってから、
賢治が抱いていたであろう、悩みや苦しみ、
そして深い深い悲しみ・・・。
それらのひとつひとつが、手に取るようにわかるようになった、
といってもいいかもしれません。

聖人、天才、救世主。
そんなものではなくただの人として、
賢治は嘉内と共に、初めて私の前に姿を現しました。
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by signaless5 | 2009-07-09 19:41 | 嘉内

七夕

昨日は七夕でしたね。

7月7日といえば、アザリアファンには
もう一つ、思い出すことがあります。

1917年(大正6年)のこの日の夜、同人誌「アザリア」の第一回集会があり
賢治・嘉内・緑石・健吉のほか、
伊藤・潮田・纐纈・鯉沼・福永・市村の計10名が出席しました。

この時の話し合いが大いに盛り上がり
その興奮から醒めることのできなかった4人は
夜を徹して雫石まで歩き続けます。
嘉内はこれを「馬鹿旅行」と名付けました。
この一晩の、若気の至りとも言えるべき小旅行が
4人の絆をさらに強く結びつけた、ともいえるのではないでしょうか。

なかでも賢治と嘉内はその一週間後
ふたりっきりで岩手山に登ります。
この時、二人はたいへん密度の濃い対話をしたようです。
「銀河の誓い」といわれる、なにか大きな願いを
二人で掛けたのではないかと言われています。
そのことはのちのちにも、賢治の嘉内あての手紙にくり返し出てくるのです。

満天の星空の下で
たったふたり。
いったいどんな会話をし、何を想ったのでしょうか。
どんなに美しい星空だったことか、
そのシチュエーションを想像するだけで
ふるえるような感動を覚えます。

岩手山はいつかきっと登りたい山のひとつです。


そして7月7日は、私の結婚記念日でもあります。
去年、その話をしたら、なんと韮崎の友人夫妻も、
この日が結婚記念日だということで、びっくりしました。
こういう日だと、忘れることはないので、
いいかもしれませんね~。

それからもうひとつ。
我らが(?)「アザリア記念会」も、去年のこの日に新しく発足しました。

夫婦も二人三脚、
「馬鹿旅行」もアザリアの出発、
「アザリア記念会」も新たな発足記念。

いろんな意味でもまた、気持ちをあらたにして
一歩一歩、進んでいこうと思います。
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by signaless5 | 2009-07-08 08:19 | 思うこと

イーハトーブ?

しかし、賢治を追いかけているとまるできりがなく、
様々な分野のことを知り、
また、追求もでき、
様々な人物にいきあたり、その人をまた追いかけてみたり
伝説と事実はどう?とか
作品の意味はなに?とか
なぜ賢治はこんなことをした?とか
なにを考えていた?とか・・・

「ディズニーランド」や「ネバーランド(?)」などは問題にならないほど
楽しくて不思議な「ワンダーランド」のようだと、
最近特に、そう思います。

これがまさに『イーハトーブ』なのかも・・・?
などとふと思う今日この頃だったりして・・・。

わたしは実に愉快で楽しくそして美しい所に迷い込んでしまったようです。
もう二度と、出られないかもしれませんね・・・。
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by signaless5 | 2009-07-07 09:13 | 思うこと

緑石さんの手紙

「賢治研究 第70号・宮沢賢治生誕百年 記念特別号」(宮沢賢治研究会・1996.8.27発行)には、アザリア4人の遺族のエッセイが寄せられています。

小菅充さん、保阪庸夫さん、御舩道子さん、宮澤雄造さん。
私は時々、これを取り出して読みます。
それぞれの深い想いが伝わってきて
読むたびに胸がいっぱいになります。


中でも、御舩道子さんのものは何度読んでも
涙なしでは読めません。

緑石さんがどれほど愛情の深い優しい人であったかは
手作りのお雛様や、前の記事でも書いた明倫小学校の校歌、
そして、兵役を解かれる15日前に書いたといわれる手紙などを
読むとよくわかります。


『少尉殿になるかならぬかは今はすでに問題ではない、早く帰へりたいのが一恵、静かに暮れて行く雪の夕べにほのぼのほのぼのと心はをどるのである。一五日一五日一五日一五日山鳥はそこに居る、青い小鳥赤い小鳥おゝ其の楽しい日は二週間の后である、長い長い間追ふてゐた小鳥は早目前にせまって来た、もうこの小鳥はにげたりはしない、今度はもう、生活の小鳥をしみじみ愛しながら生きねばならなね、おゝ友なる小鳥よ、二羽の小鳥よ君等の友の小鳥は今籠を出て、君等の野へと帰へり行く。おゝ帰へり行く、帰へり行く、楽しい暖かい私達の巣がなつかしい、手紙をくれるように手紙をくれるようにもう一五日だ毎日くれくれ、家はどうなりましたかこぼされましたか、どこに寝てゐますか、何も今は考へるひまもない。おゝ胸がをどる胸がをどる小鳥の胸は空に飛びあがって舞ふてゐる、萬歳萬歳。』

検閲が厳しかった時代、まだ一歳だったわが子宛、と見せかけて
じつは妻に書いたラブレター。

自分の妻に素直な愛情表現をする男性など
まだまだ少なかったと思われるこの時代に、
何という素敵な手紙を書く人でしょう。


それから、小学三年生で事故で亡くなられたお孫さんのこと。
初めてこれを読んだとき、私の娘もちょうど小学三年でしたので
とても切なかった・・・、重なってしまって、辛かった、
でも、相手にも家族があり、お孫さんもそれを決して望まない、と、
訴えることもしなかったといいます。

この愛の深さは、緑石さんの心そのもの。
緑石さんは、道子さんの中にしっかり
生きておられるのですね。
そしてまた、次の世代にも受け継がれていくのでしょう。


緑石さんがどんな存在かといえば
やっぱり、ふっと心を温めてくれるような
そしてちょっと泣きたくなるような・・・


緑石さんからの手紙は奥様によって大切にしまわれていたそうです。
それらの手紙集が近々出版されるようなお話もあるとのことなので
ぜひとも実現してほしいな・・・と思っています。
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by signaless5 | 2009-07-06 17:28 | 緑石