現象のとらえかた


 わたくしといふ現象は
 仮定された有機交流電燈の
 ひとつの青い照明です


何となくわかったようなわからないような
そんな感じのする「春と修羅」第一集の「序」です。

「わたくしといふ現象」とは、いったいどういうことでしょうか。


最近たくさん出ている自己啓発本などに
よく書かれているのは
世の中のあらゆるできごとは「現象」に過ぎず
それをどのようにとらえるかの違いであって
「正しい」ことも「間違っている」こともなく、正も悪もない、
ということです。

それはそのとおりだと私も思います。
そのなかで、相手と自分がお互い納得できる方向にすすむこと、
相手の立場や主張も理解した上で、自分のことも理解してもらう、
つまりは相手もよくこっちもよい、とういう道を探ることが大切といいます。
これは世界レベルでも言えるし、家族レベル、夫婦レベルでも言えることです。
自分が正しい、と言い張ることはなにも意味がなく、なにも解決できません。

話が、少しずれました。
人が「あること」を理解するということは、
その現象をどのように捉えるかということです。

雲も、風も、星も、火も、石もすべては「現象」です。
人間もまた「現象」です。
有機物・無機物の違いがあるだけで。
だから「有機交流電燈」なのでしょう。
電燈がつく、というのも現象。
形にないものですが確かに存在するもの、「感じるもの」です。
人の考えや想いも、それと同じかもしれません。

 (私がない頭でかんがえたり感じたりすることですから
 おかしいところがあるかもしれません。)

そういうことを、感じ、あるいは考えて、
「わたくし」を「現象」といった賢治という人は
すごいひとだなと思います。


世の中のあらゆるできごとは「現象」に過ぎず
それをどのようにとらえるかの違い。
つまり、「人間」も「現象」ですから、その人をどうとらえるかの違いです。

たとえば、泣いている女性の側に男性が立って
何かを話している所を見たとします。

「男性が女性を慰めている」と見る人もいれば
「別れ話をされて女性が泣いている」と見る人もいる。
それは、それを見た側の違いであり
見られた側の問題ではありません。
本当のところは、女性の目にゴミが入っただけかもしれません。

これなら当人たちにはあきらかなできごとなので
二人の間には全く異論はないかもしれませんが
これが複雑なできごとであったなら、当人たちも、
お互いに違うことを事実として認識しているかもしれません。

世の中はそんなことだらけです。



前の記事で、ある本の著者に対していろいろと書きましたが
その著者にもまったく、同じことが言えます。

ある「現象」をどうとらえるかでその人がわかるし、
それをそのようにとらえたか、ということがその人そのものだということです。

できごとにどう反応するか、それがその人。
なにごとも、自分の「鏡」ということです。

もちろん、これは私にもまったく言えることなんですが。。。(^^;)
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by signaless5 | 2009-06-30 12:30 | 思うこと

呪い本?

友人にすごい本があると教わり、読んでみました。

確かにすごい本でした。
面白すぎて一晩で一気に読んでしまいました。
すごすぎて笑ってしまいました。
著者は某大学講師で博士だそうです。

本のはじめには「賢治とは何者だったのか、今解き明かす」とあります。
しかし・・・。

10年賢治の研究をして毎年花巻にも行かれるそうですが
結局「やればやるほどわからない」のだそうです。

 《「賢治目撃者」たちによる曖昧な証言と、賢治の遺族ととりまき学者たちによる賛美に満ちた伝説、そして賢治の影の部分を探っていこうとする評論。こうしたものがごちゃ混ぜとなり、今日まで「伝説」として語り継がれる賢治のエピソードが残ってきたと言えるだろう。》

こう書きながら、それらの論文なり文章をそのまま寄せ集めて
並べているだけで、真偽を検証するでもなく
鵜呑みにしている矛盾と怠慢。

参考資料をみてみるとかなり偏っている、
と感じるのは私だけではないと思います。

これはまるで週刊誌のゴシップ記事ばかりを集めて
人を評価しているのとまったく同じ事ではないでしょうか。

読んでも読んでもわからないので、著者がたどり着いた結論は
賢治文学は「呪われて」おり、
それを有り難がって読む賢治ファンもまた、とりつかれ呪われているのだそうです。

疑問に思う点は挙げればきりがないほどです。
たとえば著者は賢治が
「死の直前、満州に兵隊として派遣されている知人への手紙の中で」
「うらやましい」と書き、「戦争に対して消極的ではなかったようだ」
と書いています。
果たしてそうでしょうか。

わたしが調べたところ、
この“手紙”とは、昭和8年8月30日付・伊藤与蔵宛てのものでした。
私はこの全文を読んでみましたが、このどこからも、
戦争を肯定するような意味に取れるところを見つけられませんでした。
むしろこれは長い病床の身にある賢治が、
戦地にいる人に宛てて「たいへん気を使ってしたためられた手紙」としか
私には見えませんでした。

字面だけとらえればたしかに「うらやましい」と書いてあります。
しかしこの方は大学講師で博士のはずですが・・・・?
この本を読んで、私にはとうていこの著者が、
賢治の作品をちゃんと読んでいるとは思えませんでしたが
たしかに「読む力」がなければいくら読んでも「わからない」でしょう。
読んで自分の頭で考えるという事をしなければ
混乱するばかりです。

みんながいい、いいといって読むものを自分がわからないから
結局わからないのは書いた人間もそれを喜んで読んでいる人間も
みんなおかしいのだ、と言いたいのかもしれません。
分からないものはわからないでよいではありませんか。

つまりは呪われているのは、著者自身だと私は感じましたが・・・


たしかに、無責任でいいかげんな「伝説」があることは否めません。
ただひとつだけ、この本の功績をあげるならば
それらを浮き彫りにしたこと、と言えるでしょうか。


でも、私はこのような人の講義を受けなければならない学生さんたちが
気の毒でしかたがありません。
私なら、教育者ならなおさら、恥ずかしくてこんな本は出せませんが・・・。
ちゃんと勉強したいなら、
大学もきちんと選ばないといけないということでしょう。


言い過ぎましたか?
今日はちょっと、この本の「呪い」に当てられたようです。
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by signaless5 | 2009-06-29 18:22 |

岩手大学の関係者の方からこんなものを頂きました。
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ストラップ!
うらはこんなです
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がんちゃん!
岩手大のキャラクターだそうです。
かわいい~!
うれし~!
(いくつだっ)

それから宮沢賢治記念館で入手した
南部鉄でできたクルミの化石のペーパーウエイト。
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これがなかなかいいんですよ。
掌にほどよい形と重さ。
これを握ると、不思議に気持ちが落ち着くのです。
いつも、職場の机の上に置いてあります。
ムカつく上司に、うしろから投げつける・・・・・・なんてことはしません。
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by signaless5 | 2009-06-26 10:26 |

ロク様!

イーハトーブの旅の反芻と平行して
このところロク様漬けの日々を送っています。
(河本緑石さんのことを私が勝手にそう呼んでいるだけです!)

鳥取の倉吉には「河本緑石研究会」があります。
これまでに機関誌と叢書をそれぞれ3号ずつ発行していて
着々と活動されている様子です。

機関誌、叢書ともに「ふらここ」といい、ブランコの意味で、

 海は
 はるかなり
 砂丘の
 ふらここ

という緑石の句からとられています。

緑石さんの作品は
まっすぐに心に入ってくるような気がします。

温かな愛情あふれるものがあると思えば
たまらなく淋しく激しく鋭いものがあったりします。
どちらも、緑石さんの魂です。
不思議なことに、違和感はありません。
むしろ、どうしようもなく惹かれてしまいます。

緑石さんの作品には
時々、あまりの美しさに涙がでるようなものがあります。

少しずつ、ご紹介できればと思っていますが、
まずは小学校の校歌として作詞したものを・・・。


 明倫小学校 校歌

あおいそら あおいそら  さくらさきみち  めぐむもの
われらいま われらいま のぞみはたかし うつくしし
あおいそら あおいそら  さくらさきみち  めぐむもの

ひかりゆれ ひかりゆれ あおばかがやき まなびやに
われらいま われらいま ともにてをとり   すすまなん
ひかりゆれ ひかりゆれ あおばかがやき まなびやに

てんじつよ てんじつよ だいちはてなし ちちははよ
われらいま われらいま おおしくこころ きたわなん
てんじつよ てんじつよ だいちはてなし ちちははよ

ゆきつみて ゆきつみて ほしよきらけき みねのまつ 
われらいま われらいま いのりささげん さちのひの 
ゆきつみて ゆきつみて ほしよきらけき みねのまつ



私はこんな美しい校歌をほかに知りません。
小さな一年生から大人まで
誰の胸にも響く美しいうた。

「審美・探求・鍛錬・信仰」という草稿メモが残っているそうですが
日本の四季と、子供たちへの願いを重ね合わせた
素晴らしいものだと感じます。

私はこれを読むたびに、ほんとうに涙が出てしまいます。
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by signaless5 | 2009-06-25 16:51 | 緑石

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岩手から帰って、もう3週間以上経つというのに
気持ちはまだそこに置いてきたまま・・・・
そんな感じの日々を送っています

思えば、花巻でも一関でも盛岡でも
いつも風の中にいたような気がします

下根子桜の林をさわさわと巡る風・・・・
夕暮れの陸中松川駅からの道をゆく風・・・・
盛岡高等農林の森を遊ぶ朝の風・・・・
旅の間中
私はまるで風に抱かれているようでした

これまでの2度の岩手とは全く違う密度で
私はこの風を感じてきました

あの風は確かに賢治だったと思います

賢治が居た頃、私はまだ風だった
私が生まれたとき、賢治はすでに風だった・・・


な~んてことを書くと
笑われてしまうでしょうか・・・


 

  風が落とすもの拾うてゐる     緑石


風たちが落としていってくれたものを
かかえきれないほど
持って帰ってきた旅でした
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by signaless5 | 2009-06-23 18:28 |

盛岡高等農林・・・・じゃなかった、岩手大学を後にして
ぶらぶらしながら、材木町へ。
途中、嘉内が下宿した跡を探してみました。
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           この駐車場の奥の辺りがそうです


その後、光原社へ。
ここにの奥には資料館もあるのですが
整理中とのことで残念ながら見学はできませんでした。
でも、幸運なことに創業者であり賢治の後輩の
及川四郎さんの娘さんがちょうどみえて
いろいろお話をしてくださいました。
「閉館中ですみませんね。ぜひまた機会があれば見に来てくださいね」
と言ってくださり、それだけで満足した気分になりました。
とても素敵な方でした。

次に向かったのは「下の橋教会」です。
ここは在学中に保阪嘉内が通ったといわれる教会です。
賢治も誘われてなんどか一緒に行ったのではないでしょうか。
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それからこの近くにある、賢治が弟清六さんと下宿したときに使ったといわれる井戸。
こちらは、その井戸と同じ水源から汲み上げた「賢治清水」。
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飲めるようになっていたので一口頂いてきました。
やはり、おいしいような気がしました。
ここを裏手に回ったところに、ほんものの賢治の井戸がありました。

それから盛岡城を少しだけ歩いて杜陵小学校へ。
ここの校庭には、山梨から送られた「やまなし」の木があります。
一方、山梨には「ぎんどろ」の木が送られました。
詳しくはこちら
思わず私も、保阪先生のように
やまなしの葉っぱをよしよしとなでていました(^o^)
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てくてく歩いて今度は中の橋にある「もりおか啄木・賢治青春館」へ。
明治43年に竣工した旧第九十銀行を保存活用してあります。
ここでは思わぬ方々と出会ってびっくり。
ここには少し前に話題になった「バーチャル賢治さん」がいます。
せっかくなので覗いてみました。
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う~ん、
賢治といわれれば賢治と思いこむしかないかも・・・。

確かに小さい子供さんだと怖がって泣くでしょうね。
本物の賢治さんは
同僚や教え子の子供さんを、膝の上に載せて
歌を歌ってあげたりしたそうですから
子供が好きだったのでしょう。
本当は自分の子も抱いてみたかったかもしれません。

病臥しているとき、妹の子供が病気になってむずがっても
暗い陰気な部屋しか与えてやれないのを
不憫に思う詩があったはずです。

怖い賢治さんは適当に切り上げることにして、
(でも、係のおねいさんは優しかったです)
展示物を眺めてからそとへ。

お土産でも覗こうかと「プラザおでって」へ行こうとすると
その先で古本市が・・・。
足が勝手にそっちの方へ行ってしまいました。
そこで友人が「掘り出し物」を見つけてくれました。
自分は持ってるからどうぞ、と。
一人では絶対に見つけられないものでした。

それから岩手銀行中ノ橋支店 (旧盛岡銀行)の建物を外から眺めて
あとは再びてくてく歩いて駅まで行きました。

盛岡はとっても素敵な街でした。
夜お店がはやく閉まってしまうのがものたりませんが
古い建物が各所に遺っているし、
岩手山に見守られ、不思議な安心感のようなものを感じる街です。

今回は、花巻でもそうでしたが
ほとんどをぶらぶら歩いて移動したので、
だいたいの位置関係や距離感が掴めてとても良かったです。
作品やエピソードを読んでも、具体的に感じることができます。
いろんな意味で、たいへん有意義な旅でした。

同行してくれた友人に感謝。
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by signaless5 | 2009-06-20 16:44 |

次の日は朝から盛岡の岩手大学へ。

平日ということもあって学生さん達の姿がありました。
若いっていいな~と思いながら奥へ進み、まずは旧植物園に行きました。
保阪嘉内がねそべっている有名な(?)写真のあの場所です。

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                旧植物園のあたり

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              いつでもお茶目な嘉内さん


それから、彼等は大きな石が積み上げられたところでも撮っています。
今は木や草が生い茂っていて、教えてもらわないと
気づかずに通り過ぎてしまいそうです。
当時の場所が、大して変わらないまま遺されている、ということに感動します。
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             撮るには撮ったけどちっともわかりませんね


図書館ギャラリーでは創立60周年記念展示として
「『アザリアの咲くとき』~宮沢賢治と学友たち」が開催されていました。
6月1日のオープニングセレモニーでは
宮澤賢治・小菅健吉・河本緑石・保阪嘉内の4人のご遺族が
初めて一堂に会されたということです。
この岩手大学で、それが叶ったということは
非常に感慨深いものがあります。
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               「アザリアの咲くとき」


嘉内は、2年生の終わりに突然学校を退学になりました。
理由は未だに明らかになっていません。
これは、当時の時代の暗い影の影響が大きいと思いますが
嘉内本人はもちろん、賢治たちは
非常にやりきれない思いをしたのではないでしょうか。

嘉内が学校を去るとほぼ同時に賢治も卒業しますが
その直前に「私も学校をやめる」と言い出して、家族を困らせたとか。
学校に抗議をしたかった賢治の気持ちもわかります。
学校もしくは当局から誤解されるような言動があったのは
嘉内だけではありません。
目立った彼一人が、犠牲になったということでしょう。

賢治は、大切にしていた自分の「赤い経巻」、
すなわち「漢和対照妙法蓮華経(島地大等編)」を嘉内に送っています。
おそらくこの本は、当時の賢治にとっては
一番大切な本だったのではなかったでしょうか。
そのことでも、賢治がどれほど嘉内のことを想っていたかがわかります。
この「赤い経巻」も、手紙などと一緒に展示されていました。
私は一昨年秋の山梨の展示会でもこの本を見ていますが、
これを見るたびに胸に抱きしめたい衝動に駆られてしまいます。
(そんな変人は私だけでしょうか・・・?)

様々なことがあったとはいえ、
この盛岡高等農林は、アザリアの友たちが
お互いを切磋琢磨し、かけがえのない友情を育んだ場所です。
嘉内は後々まで、この盛岡を
第2のふるさとのように思っていたのだと思います。

そんなことを考えながら、当時のまま遺る建物、
現在は農業教育資料館となっている旧盛岡高等農林学校本館へ・・・。

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               旧本館=農業教育資料館


実は私は、この岩手大学へは2度来ているのですが
2度ともこの資料館が閉まっていて中にはいることが出来ませんでした。
ここは「大礼服の例外的効果」という賢治の作品の舞台です。
展示物の中に
日本で数少ない「朱鷺」の剥製があると知ってからは
それもぜひ見たいと思っていたのです。
3度目の正直(?)でやっと念願が叶うことに・・・・。

廊下や校長室、講堂など、
賢治たちもここを何度も行ったり来たりしたのでしょう。
手すりの丸くなった階段を上れば、
ふと上から若き日の賢治が降りてくるような
そんな錯覚に捕らわれたり・・・。
玄関ホール正面には、明治41年(1908年)からある大時計。
賢治たちも毎日のようにこの時計の音を聞いていたのでしょう。
まさに100年の時を刻む「大きなのっぽの古時計」です。
講堂には賢治が旗手を務めた当時の校旗も飾られていました。

ここには、かなりたくさんの当時の資料が収められてあり
中でも鳥類の標本=剥製の部屋に一歩入ったときには
あまりの数の多さに一瞬息を飲みました。
もちろんお目当ての朱鷺の剥製もありました。
調べてみたら、当時の高等農林にすでにあったもののようです。
賢治もきっとこれを眺めたのでしょうね・・・・。


その後、盛岡高等農林学校時代に図書室として使われていた
ミュージアム本館を覗いてから自啓寮跡へ。
それから旧正門を通って外に出ました。

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                   旧図書館

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                   自啓寮跡

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                   旧正門


岩手大学では、あちこちに当時の面影が遺されています。
森といっていいほど、木々が育ち、緑豊かな素晴らしい校内です。
もし近くに住んでいれば、散歩に、
あるいはおにぎりを持ってランチにと毎日でも来たいほど。
それに何と言っても
逢いたくなったらいつでも、
賢治や嘉内、緑石、健吉たちに逢えるんですから・・・ね。
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by signaless5 | 2009-06-17 17:52 |

身照寺に賢治のお墓参りをしてからレンタカーで一関に向かいました。

一関の陸中松川駅の側には「東北砕石工場」が残っています。
近くには石と賢治のミュージアム「太陽と風の家」という施設もあり
この旅の同行者である友人がこの機会に行ってみたいということで
足を伸ばすことになりました。

賢治は晩年、この工場に勤務し、重い石材見本をトランクに詰めて各地を歩き回ったりしました。
その無理がたたって、再び病臥し、今度は治癒することなく昭和8年に亡くなりました。
そういうこともあって、
今まで私は、いくら賢治が望んだこととはいえ、
賢治の死を早めることになったこの工場勤務、
もっとあからさまに言えば、賢治を引き入れた鈴木東蔵という人に対して
理屈では解っていても、どうしても心の奥では、
何かわだかまりのようなものをぬぐうことができませんでした。

しかし、今回実際に東北砕石工場とミュージアムを訪れたことで
その思いが大きく変わりました。

ミュージアムの中には「双思堂文庫」が併設されています。
これは斉藤文一氏と鈴木東蔵及びその長男の實氏の蔵書が寄贈された文庫です。
そこでは、たいへん丁寧な対応をして頂き、
さらに、鈴木東蔵の著書の一部を見せて頂くことができました。
東蔵は「農村救済の理論及び実際」「理想郷の創造」と「地方自治文化的改造」という3冊の本を書いています。
それらの内容は実に綿密に、理想の農村、社会、文化を築くための理論やビジョンが書かれていました。
さっと目を通しただけでも、私にもそれらがどんなに素晴らしいものだったかがわかりました。
驚いたのは、その中に、横浜に視察をした保育園の様子を記録したものがあったことです。これは、東蔵が、女性の社会での活躍をも、早くもそうあるべきものとして捕らえていたことの表れではないかと、そんな風に感じました。

発行年月日を見たらなんと、たしか大正6年頃ではなかったでしょうか。(あやふやですみません)
賢治や嘉内が、理想の農村を本気で目指すのはもう少し後のことです。
賢治が、東蔵の著書を読んだかどうかはわかりませんが
読んだとしたなら、驚愕したのではないかと想像します。

こんな東蔵と出会い、賢治と意気投合しないわけがありません。
賢治が東蔵を尊敬しないわけがありません。
なんとか日本の農業のために役に立つ仕事ができないかという賢治の想いが、この工場に勤めるべきだと決心させた、
この人と共にやっていきたいと
賢治自らが、強く願ったのだと私は思いました。

決して親・兄弟に対する負い目や、
これまでやってきたことが失敗に終わったことへの償いのような、
ある意味仕方なしに就かざるを得なかった仕事ではなく
きっと賢治が心から望み、納得して取り組んだことだったのでしょう。
そうであるならば、そのことは救いです。
決して、賢治は後悔はしていないと思えるからです。
本当に信じる道を、精一杯突き進んで力尽きたのなら
それは本望なのではないか。
本心ではやりたくなかった仕事で終わった人生ではなく、
最後までやりたいことをやって尽きたのなら
それは意義のあったことではなかったか・・・。

鈴木東蔵という人は、これまで、
賢治を雇うに当たっては宮澤家の援助を得たかったからだとか
事業の失敗などから、まるで山師かなにかのような言われ方、
とらえられ方をされては来なかったでしょうか。
かくいう私も、そういう風評をそのまま受け入れていたと思います。

保阪嘉内のときもそうでしたが
私は「宮澤賢治」のことを見ているようで
実はなにもちゃんと見てはいないのだということを
思い知らされたような気がします。


花巻から車で行っても、東北砕石工場までは1時間くらいだったでしょうか。
なんて遠い、と感じました。
なにもこんな遠くに勤めなくてもよかったではないか、と思うのです。
電車で通ったにせよ同じことです。
それでも、ここに勤めようと賢治に思わせたもの、
それが何であるかを心底理解できたような気がします。

陸中松川駅は、無人の駅で、まわりには少し人家があるだけで
ひっそりとしていました。
ホーム入って線路を眺めると、その向こうに工場が見えます。
ここに降り立った賢治は、この道を辿って何度も工場に通ったんだ、
そう思うと、胸がいっぱいになりました。
何を考えながらこの道を歩いたんだろう・・・。
どんな想いで重い荷物を持っていたんだろう・・・。

私は、この道で、おおきなトランクを下げて
うつむき加減で歩く賢治を確かに見たような気がしました。

賢治を駆り立てたものがなんであったか。
死ぬまで賢治が追い求めたもの、それが何であったか。

私はまだまだ、賢治の何も、解ってはいない。

ここを訪れることによって、いろんなものがまた
見えてきました。

ここに連れてきてくれた友人には
心から感謝しています。

最後に、鈴木東蔵氏の子息実氏が書かれた手記の
終わりの部分を記しておきます。

『父がなくなって元砕石工場の工員達が花輪を捧げにきてくれた時は心を打たれた。工場に働いた大工さんは、お前さんが死んでもこんなには送ってくれませんよと話してくれた。父は悪にも強かった。父は善玉か悪玉か、それは歳月と歴史が決めることで、それらが洗ってはっきりすることで私のいうべき事ではない。
(鈴木 実)』


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「東北砕石工場」
中も見学ができるようになっていて、当時の稼働していた様子を想像するとけっこう迫力があります。

有名な写真(鈴木東蔵氏やたくさんの工員さんたちと移っているもの)
に関する“あるオブジェ(?)”があるのですが、いきなり見るとびっくりします。
それは行ってみてのお楽しみとして、あえて写真は載せないでおきます。


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陸中松川駅ホームより東北砕石工場を望む(中心の白っぽいのが工場)


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賢治が休んだかもしれない古い旅館とその上の鳥居。
たまたまこの前で息子さんとキャッチボールをしていた女性に訊ねたら
「登れないことはないけど、とても大変ですよ」と言われてあきらめました。
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by signaless5 | 2009-06-11 18:25 |

13年ぶりに、花巻・盛岡に行ってきました。

前回は’96年の賢治生誕100年の賢治祭の時でしたので
それはもうあちこちで“お祭り騒ぎ”でしたが、
今回は静かな落ち着いたイーハトーブを楽しむことができました。

帰ってから、たまっていた仕事をこなすのに必死だったこともありますが
書きたい事がいっぱいありすぎて何からどう書いていいのかわからず
アップが遅くなってしまいました。

今でも、まとまっていませんが
いつまで経っても書けそうにないので
思いついた事から記事にしていこうと思います。

13年という月日は長いようで短いようで・・・。
変わっていてびっくりしたところもありますが
イーハトーブはやはり私にとっては心の故郷のようなもの。
自分の中でも新たな発見があったりして
これまでで一番(といっても3度目ですが)中身の濃い旅だったような気がします。

花巻で、何度行っても必ず行きたいところは
下根子の「雨ニモマケズ詩碑」と
花巻農業高校に移築された「羅須地人協会の建物」でしょうか。
もちろん宮沢賢治記念館もはずしませんが
私にとって、ほんとうに賢治に会える場所はそのふたつです。

さらさらと風の鳴る詩碑の広場に立てば
何時間でもそこにとどまっていたい気持ちになります。
ここで賢治は何を想って過ごしたのか。
賢治もこの風の音を聞きながら抱えたものとひとり戦ったのだと・・・。
あれこれ考えていると時間はすぐに経ってしまいます。

賢治の植えたギンドロが大きくなって
広場を見下ろしている。
風が払い落とした葉っぱのひとひらを
これはきっと賢治からの通信・・・と拾いあげて後ろ髪引かれるように
その場を後にしました。

花巻農業高校の「賢治先生の家」(羅須地人協会建物)では
とんだハプニング。
なんと、しばらく土日は開放しないとの張り紙が・・・・。
そのショックたるや、誰にも分かるまい(分かる?)
なんで・・・・・?
いつから・・・・?
誰が決めたの・・・・・?

どこかにカギのかけ忘れはないかとさんざん探し回ったあげく
外からまわりをぐるっとのぞき込んだだけで
泣く泣くその場を離れたのでした。

う~ん、これは賢治が「またそのうちに花巻に来い」って言っているのかな・・・
と勝手に解釈というか、自分を慰めて、そう思う事にしました。
ああ、和室に大の字で寝ころびたかったのにな~!!

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羅須地人協会が建っていた場所
現在は「雨ニモマケズ」の詩碑が建ち、毎年9月の賢治祭はこの場所で行われます

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賢治の愛したギンドロの木

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賢治先生はお留守でした(T_T)

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ガラス窓越しに覗いた洋室
ここで講義や勉強会をしたり音楽会を開いたりしたようです
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by signaless5 | 2009-06-07 11:14 |