童児(わらし)その2


《テキストA》
 ニコニコ明るい笑顔で汽車から降りた兄賢治は、弟に、手に持った大きな重い革トランクを渡した。
「コドモをこさえるかわりに、いっしょけんめい書いたものだじょ」
 兄は弟に、一向かわらない半分ふざけた調子でいった。


《テキストB》
 大きなトランク一ぱいに、童話の原稿をつめて、久々に故郷に帰った賢治は、妹の身を案じながらもなかなか元気で、
「東京での仕事は、ただこれだけです。まぁ、子供をもつかわりに、こんな原稿を得たようなものでー」
 と、なかば言い訳ともつかないことを、家人の前で独語するのでした。


《テキストC》
さて、そのトランクを二人で、代わりがわりにぶらさげて家へ帰ったとき、姉の病気もそれほどではなかったので、「今度はこんなものを書いてきたんじゃあ」と言いながら、そのトランクを開けたのだ。
(中略)
「童児(わらし)こさえる代わりに書いたのだもや」などと言いながら、兄はそれをみんなに読んでくれたのだった。



問題:上の3つの文章は、それぞれ、だれが書いたものでしょ~か。
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by signaless5 | 2009-01-26 18:10 | 賢治

童児(わらし)

大正10年、家出先の東京から戻った賢治は、
トランクいっぱいの原稿を家族に見せて言いました。

「童児(わらし)こさえる代わりに書いたのだもや」

それらの作品は私たちに、
宮沢賢治という人が、何を考え、どう生きたかを伝えてくれました。
生涯独身で、子供のなかった賢治にとって
その作品は、ほんとうに我が子のような存在かもしれません。


さて、嘉内はどうでしょうか。

賢治のようには自分の想いを伝える時間と術を
満足に得ることができなかったのかもしれません。
賢治のようにはたくさんの人々にもてはやされるような作品を
残さなかったかのもしれません。

でも、それはたしかに受け継がれたのです。
自分とそして賢治の、想いと生き様を見据え、伝えることを託したのは、
当時10歳であったほんものの「童児(わらし)」だったのではないでしょうか。
(当人が意識しようがしまいが-です)


賢治がのこした童児と嘉内がのこした童児。
私はそのどちらにも出会えたことに感謝します。


こんなふうに書くと
お叱りを受けるかもしれませんが
私はいたって、まじめにそう思うのです。
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by signaless5 | 2009-01-23 18:54

年が明けたと思ったら
あっという間に2週間以上過ぎてしまいました。
相変わらずのペースですみません。

今日は詩集「春と修羅」についてです

大正10年7月18日、
賢治と嘉内は東京で久々に再会し、
そこで二人が激しい口論をした、として。

そしてそれが「二人の決別」になったという説があります。

どのような口論をしたのか
いまとなってはそれはもう誰にもわかりませんが
嘉内のこの日の日記には「宮沢賢治/面会来」と書いて
大きく斜線を引いてあり、その後日記自体も途絶えてしまうことから
二人にとってかなりの激論で、
大きなショックを残したことに違いはなさそうです

しかし。

賢治が「春と修羅」を出版したのは1924年4月20日です

この詩集には、銀河や一本杉、電信柱など
嘉内と賢治にしかわからない
暗号のようなキーワードがいっぱいらしいのです

そしてその詩集に描かれてあるのは
賢治のどうしようもない“さびしい心”なのです

賢治が嘉内に詩集を送ったのは
出版から半年も経った10月のことらしいのですが
それは賢治のかわいい(?)はにかみでしょうか
賢治らしい気もします

こんな詩集を受け取った嘉内は
果たしてどんな気持ちだったでしょうか

嘉内はこの本を生涯大切にし
しかもぼろぼろになるくらい読み込んでいたそうですが

「決別」とはほど遠い交流だと思いますが
どうでしょうか・・・・?
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by signaless5 | 2009-01-16 15:31 | 賢治

謹賀新年2009

こんな時代だからこそ
夢をたくさん持っていたいな~と思います

そしていつも
小さなことにも感謝し幸せを感じることができる
自分でありたいと思います

今年もどうぞよろしくお願いします
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by signaless5 | 2009-01-04 15:49