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ひらかぬ花の蕾

……南の海の
    南の海の
    はげしい熱気とけむりのなかから
    ひらかぬまゝにさえざえ芳り
    つひにひらかず水にこぼれる
    巨きな花の蕾がある……
   (「三原三部」 第一部)

なぜわたくしは離れて来るその島を
   じっと見つめて来なかったでせう
   もういま南にあなたの島はすっかり見えず
   わづかに伊豆の山山が
   その方向を指し示すだけです
   たうたうわたくしは
   いそがしくあなた方を離れてしまったのです
   (中略)

   思ひがけなく
   雲につゝまれた富士の右で
   一つの灰いろの雲の峯が
   その葡萄状の周縁を
   かゞやく金の環で飾られ
   さん然として立って居ります
         ……風と
           風と
  
   海があんまりかなしいひすゐのいろなのに
   そらにやさしい紫いろで
   苹果の果肉のやうな雲もうかびます
 
   
   船にはいま十字のもやうのはいった灯もともり
   うしろには
   もう濃い緑いろの観音崎の上に
   しらしら灯をもすあのまっ白な燈台も見え
   あなたの上のそらはいちめん
   そらはいちめん
   かゞやくかゞやく
          猩々緋です
(「三原三部」 第三部)

賢治は1928年6月、伊豆大島に伊藤七雄を訪ねました。
農芸学校設立のための助言を依頼するという表向きの目的の他に
妹ちえと賢治を「見合い」させようという伊藤家側の思いがあったようです。
賢治は恐らくそれとは知らされておらず、ちえの方だけが知っていたようにも
見えます。
しかし、この「三原三部」における切ないような甘い香りはなんでしょうか。
結局、賢治には堅いある意志があり、ふたりはその後会うこともなくそれぞれの道を歩くことになりました。

賢治を追いかけ回した悪女とされた高瀬露さんとは対照的に
叶わぬほのかなロマンスの相手として聖女のように伝えられたちえさん。
ところが、彼女もまた、賢治研究家によってつくられたイメージ、
心ない者によって踏みにじられた犠牲者の一人だったのです。

私はごく最近、ちえさんから森荘已池に宛てた手紙を読みました。
参照:「猫の事務所」調査書・資料室
その2通の手紙からは、ちえさんがどんな女性だったか
よくわかる気がします。
そこには誠実で偽りのない心からの願いが込められていました。

彼女が当時、ひとりの女性として、具体的にはわからずとも
どれほどの苦しみ・悩みを抱いていたか。
誰にも言わずに心に溜めておいたものを、恥を忍んで打ち明け
必死で書いた手紙に違いありません。
それを思うと、涙が出ました。

それと同時に私にはいいようのない怒りがこみ上げてきました。
とうの昔の、自分には何も関わりのないことで
これほどの怒りを覚えたことはないほどです。

ちえさんの人の良さ、立場の弱さをいいことに、
踏みにじり、傷つけ、あることないこと作り上げた人物。
手紙の相手。森荘已池。
なにゆえにそのようなことができたのでしょうか。
賢治さんがその事を知ったら、決して許しはしなかったと私は思うのです。
賢治さんの、年下の友人?
いつもそばにいて、賢治さんのことを何でも知っていた?
それを誇示したかったのでしょうか。
私には最低の人間としか思えません。
賢治と交際していた当時は普通の人、いい人だったのかもしれません。
森佐一のままであれば、素朴な人だったのかもしれません。
しかし、賢治が死後有名になり、それにつれてまわりにちやほやされて、
人が変わってしまったのでしょうか。

大切にしておきたいものをおもしろおかしく人前にさらされてしまった
その後のちえさんの心中を思うと、胸をえぐられるような痛みさえ感じます。

高瀬露さんのことも、森が大いに関与している気がしてなりません。
森荘已池とは、いったい何ものなのでしょうか。

露さんとちえさん。
こんな犠牲者を出さずとも
賢治の価値は充分のはずです。

罪のない人を傷つけ陥れて、
何が賢治研究でしょうか。
そういう人達が賢治を語る資格があるでしょうか。


賢治さんがちえさんに、惹かれたのは
もしかしたら、彼女の魂の中に
自分と同じようなある“ある色”のようなものを感じ取ったからではないか・・・。
手紙を読みながら、私はそんなことも感じていました。
彼女となら、精神的なつながりで結びつくことができるかもしれない、
賢治はそんなふうに感じたのかもしれません。
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by signaless5 | 2008-11-29 13:59 | 賢治

馬鹿旅行

大正6年7月7日、「アザリア」のメンバーは第一回の会合を持ちました。
ほとんどのメンバーが出席したその会は大いに盛り上がり
閉会後も、興奮さめやらぬ一部のメンバー、すなわち
賢治、嘉内、河本義行、小菅健吉の4人は、
盛岡から雫石まで約20kmを夜通し歩き通すという
「馬鹿旅行」を敢行します。
賢治と嘉内、二十歳のときのことです。

賢治はその時の様子を「秋田街道」という作品に残しています。
嘉内は六十首に及ぶ短歌につづり、「馬鹿旅行」と名付けました。
健吉・義もそれぞれ作品に残しています。
4人の輝かしい青春の象徴のようなできごとではなかったでしょうか。

「馬鹿旅行」・・・

なんとなく、悪い意味ではないことはわかりますが
嘉内がなぜ「馬鹿」ということばをつけたのか。
初めて聞いたとき、すこしひっかかるものがありました。

この前、三神敬子さんの文章を読んでいたとき
山梨では「馬鹿」という言葉には、一般とは少し違う意味が込められている、
それで他県の人から誤解されることがある、
というようなことが書かれてありました。
なるほど、そうだったのか。
でも、いったい、どういう感じなんだろう・・・。

幸いなことに山梨に友達がいたので、さっそく聞いてみました。

「馬鹿」はたしかにいい言葉ではないかもしれないけど
あまり怒られているとか悪くいわれているイメージではないようです。
むしろ、愛情をもって言う、そんな感じでしょうか。
「馬鹿じゃん」と言われるとうれしい。
「でっかい馬鹿」と言われるともっとうれしい、という人も。

「でかい馬鹿」は初めて聞いたのでおもしろいな~と思いました。
なんとなく、わかってきました。
山梨でいうところの「馬鹿」のニュアンスが。

私も「でっかい馬鹿じゃ~ん」と言ってもらえるような人になりたいなって
思いましたもの・・・・。


嘉内は、とてもとても愛情をこめて
あの夜の無鉄砲歩きを「馬鹿旅行」と呼んだのですね。

きっとアザリアのほかの3人には、そのニュアンスはわかっていたことでしょう。

私にもそれが理解できて
ほんとにうれしいです!
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by signaless5 | 2008-11-13 09:39 | 嘉内