カテゴリ:思うこと( 37 )

移転します

突然で申し訳ありませんが
ブログを引っ越しいたしました。

ご迷惑をお掛けします。

このブログは残しますので
新旧共々、今後ともよろしくお願いします

新しいブログも「りんご通信」です。
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by signaless5 | 2010-07-15 18:43 | 思うこと

『よだかの星』という童話は有名ですが
その中に、よだかが鷹に、改名しろと迫られるシーンがあります。

強く勇敢な鷹にとっては、弱く醜い「よだか」の名前に、
仮にも「鷹」がつくのは許せない、ということで
いっそ「市蔵」という名前に変えろと迫られます。

この「市蔵」という名前。
夏目漱石の『彼岸過迄』という作品の登場人物の名で
その昔にいわれた「高等遊民」だということです。

高等遊民(こうとうゆうみん)は、明治時代から昭和初期の近代戦前期にかけて多く使われた言葉であり、大学等の高等教育機関で教育を受け卒業しながらも、経済的に不自由が無いため、官吏や会社員などになって労働に従事することなく、読書などをして過ごしている人のこと。(wikipediaより)


いわゆる、ぶらぶら遊んでいるお金持ちのインテリのボンボン
ということでしょう。

しかし、よだかは決して恵まれた境遇にあるわけでもなく
ここにこの「市蔵」という名前が出てくるのは
「高等遊民」という存在自体が一般的に
やっかみ半分、軽蔑されていたからでしょうか。
それとも、賢治自身の負い目みたいなものと関係しているのでは…と思ったりします。


先日、友人に誘われて三重県立美術館へ行き
川喜田半泥子(かわきたはんでいし)という人の美術展を見てきました。
1878年、豪商の裕福な家に生まれ、
百五銀行の頭取を勤め
陶芸や書・絵画をなどの多数の作品を残した人です。

会場では、当時珍しかった映写機で自分が陶芸をしている様子や
仲間とテニス大会をしている映像も放映されていました。

それを見て私は賢治の詩、[あすこの田はねえ]を思い出しました

   これからの本統の勉強はねえ
   テニスをしながら商売の先生から
   義理で教はることでないんだ

半泥子は、“テニスをしながら商売をした人”だったのですね。
それはある意味非常に幸せなこと。
「ケセラセラ(=なるようになるさ)」をモットーにしていたようですが
そういう心の持ち方は、苦しみや困難を乗り越えるためには
大切なことかも知れません。

ただ、やはり賢治好きの私としては
賢治と半泥子、二人の生涯のあまりの違いに、
形容しがたいものを感じてしまいました。

賢治も、本来はそれなりの仕事をし、
自分の楽しみの為だけに生きられる立場の人だった。
そのように生きたとしても、
だれも非難などしなかったでしょう。
逆に財を使って誰にもわかり目に見える仕事をすれば
ありがたがってもらえたかも知れない。
それを、あえて自ら選んで困難な道に進んだ賢治に対し、
どうしようもない重い哀しみのようなものを感じ
しばらく呆然としてしまいました。

賢治は端から見れば「高等遊民」に見えたのかも知れませんし
私のまわりにも、言葉こそ違えど、
たぶんそれと同じようにしかとらえていない人もいます。

しかしながら、もし賢治がそのような生涯を送ったとしたら
作品だって違うものになっていたであろうし
私が賢治をこれほどまでに好きになったかどうか。

私にとって、宮沢賢治は不思議な人であるけれど
宮沢賢治があのような宮沢賢治だったからこそ
何年もずっと追いかけていながら
少しも飽きることなく
なお深く索めたくなる人であることに違いはありません。
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by signaless5 | 2010-06-17 13:35 | 思うこと

2,3歳の頃、毎日父とお風呂に入って
「ひょっこりひょうたん島」を歌っていたことを覚えています。

その後15年くらい経ってから観たのが
「イーハトーボの劇列車」です。
それは3月の終わりで、
桜の下を歩いて行ったことを思い出しました。

会員制の観劇会の例会だったので
一般人は観られなかったのですが
母のつてでこっそり裏口から入れてもらいました。
(もう時効ですよね・・・)
その時の賢治役の俳優さんは確か高橋長英さんだったと思います。
その後もTVドラマなどで見かけると
トキめいたりしたものでした。

TVでも放送され、
2度ほど観た記憶があります。
私はとくに矢崎滋さんの賢治も好きでした。

父・政次郎の佐藤慶さんとの口論のシーン、
つまりは保阪嘉内あての手紙に書いた文章を台詞にしたものなどは
じつに印象的でした。

その当時も、
賢治作品や資料を相当、しかも愛情をもって読み込んでいなければ
書けない作品ではないかと感じたのですが
今あらためて思い返しても、やはりほんとうに素晴らしい作品だったと思います。
賢治の生涯のなかでも“上京”に絞ってスポットを当てた、というのは
みごとだと思います。
賢治の生涯において、東京というのはキーポイントにちがいありません。

当時は家庭用VTRなどはなく、
モノラルのテープレコーダーでTV放送を録音し
音声だけを繰り返して聞いたものでした。

今はなんでも録画録音できてしまうし
ミュージシャンのライブでも、その日のうちに
ネットを通じてアップされているような時代・・・
実に便利になりました。

当時のことを思い出して
また「イーハトーボの劇列車」が観たくなりました。
できたら高橋さんか矢崎さんのものを。
NHKさん、やってくれないかな~。
そのうち追悼番組で・・・?

 井上ひさしさん、たくさんの素晴らしい作品をありがとうございました。
 ご冥福をお祈りします。
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by signaless5 | 2010-04-13 22:32 | 思うこと

羅須地人協会の床板

夕べのこと。
ほろ酔い加減で気持ちよく帰宅すると
「宮澤賢治学会イーハトーブセンター」の会報第40号が届いていました。

さっそく手に取り、
毎年9月の定期大会懇親会にだされる料理について書かれた
中野由貴さんの「懇親会のおいしいものたち」を読んで
「うわ、『藁のオムレツ』おいしいそう・・・」とか
「あ~『白金豚の塩釜焼プリオシン海岸風』、食べたい~」などと
たらふく食べてきた後なのに、
また頭の中はおいしそうな食べ物のこととでいっぱいになる始末・・・。


ところが、その後、思わず絶句するような記事を読み
いまもそのショックから立ち直れないでいます。

外山正さんの「羅須地人協会の床板についての報告」という投稿エッセイです。

花巻農業高校に現在、移築保存されている羅須地人協会は
賢治が農民の中にありたいと願い独居自炊生活をした由緒ある建物です。

その報告の内容は
同校の100周年事業の記念事業として
高校敷地内に賢治像が建立されたのと同時に
その一環として、協会の建物の床が
ごくふつうのフローリングに張り替えられてしまった、というものです。

掲載されている写真を見ると
たしかに、張り替える前の床板は幅もまちまちで、
まさしく賢治の歩いたであろう床そのもの、
つまり賢治の『足あと』がそのまま残っているものであったはずです。
その後、修復されている部分があったとしても
恐らく、すべて取り替えられたわけではなく
一部を治しただけであったと思います。
外山氏も述べられているように、
万一、それらがすべて
「賢治後の世代に属するものであったとしても、
往時の状況をよく表現していた文化財としての価値があったはず」です。

それを無造作にすべてを引っぱがしてしまい、
どこにでもあるフローリングにすり替えてしまうとは・・・・

外山氏がその事実を知って、
背筋がぞっとし、膝の力が抜けた、というように書かれていますが
きっとほんとうに卒倒してしまうくらい驚かれたことでしょう。
私もまたその報告を読み、
頭から大噴火が起こり、
その後身体中の力が抜ける思いでした。

思い起こせば、昨年、13年ぶりに花巻を訪れたとき
当然のように花巻農業高校にも足を運んだのですが
無情にも「しばらく土日は公開をしません」の張り紙の前に涙をのみ
ガラス窓におでこをくっつけて必死で中をのぞき込んでくるだけで
我慢するしかなかったこと・・・。
その時、何か違和感を感じたことと無縁ではないような気がするのは
思い過ごしでしょうか・・・。

いったい、どういうものの考え方をすれば
こういうことができるのか、教えて欲しいのです。

床の老朽化が進み、
お客様に何かあってからでは
責任の所在に困る、というのであれば
もっと他に手だてもあったはずではないでしょうか。
例えば床下に補強を施工して、表面の板はそのままにしておくことも
現代の技術をもってすれば可能ではないのでしょうか。
その為の予算がないというのであれば
全国にその旨を募れば
賢治の歩いた床を保存するためならなんとかしたいという人は
私を含めて何人も存在するはずだというのは
私の勝手な妄想でしょうか・・・。

「文化財」という名がつくつかない以前の問題だと思うし
賢治ファンの想い、というものが理解されないのであれば
いったい、この「羅須地人協会」の建物を管理体制を
このままにしておいて良いのだろうかと
賢治愛好家の末席にかじりついている私であっても
疑問に思ってしまいます。

賢治の住んだ家が、少しずつ入れ替わって
まったく別の建材にうまれかわってしまう前に
一刻も早く、自分の眼でしっかりと見て
触って愛惜しんで来なければいけない、と真剣にそう思ってしまいます。

何年かして行ってみたら
「雨風が入り込むといけないのでこのように改善致しました」との説明書きと共に
サッシ窓が燦然と輝いている・・・
なんてことの決してないように、ただただ、祈るだけです。
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by signaless5 | 2010-04-03 16:15 | 思うこと

11.3.

     〔雨ニモマケズ〕

   雨ニモマケズ
   風ニモマケズ
   雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
   丈夫ナカラダヲモチ
   慾ハナク
   決シテ瞋ラズ
   イツモシヅカニワラッテヰル
   一日ニ玄米四合ト
   味噌ト少シノ野菜ヲタベ
   アラユルコトヲ
   ジブンヲカンジョウニ入レズニ
   ヨクミキキシワカリ
   ソシテワスレズ
   野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
   小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
   東ニ病気ノコドモアレバ
   行ッテ看病シテヤリ
   西ニツカレタ母アレバ
   行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
   南ニ死ニサウナ人アレバ
   行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
   北ニケンクヮヤソショウガアレバ
   ツマラナイカラヤメロトイヒ
   ヒデリノトキハナミダヲナガシ
   サムサノナツハオロオロアルキ
   ミンナニデクノボートヨバレ
   ホメラレモセズ
   クニモサレズ
   サウイフモノニ  
   ワタシハナリタイ


以前にも書いたことがありましたが
ふたたび「雨ニモマケズ」について・・・。

私は賢治の言いたいことは、なんとなくわかっているつもりでした。

でも、現実として
人から「ホメラレモセズ、クニモサレズ」にいることなど
できるでしょうか。
そのような存在になるのは、
社会と関わっている以上、不可能なことのように思います。

なぜなら、どれだけ自分がそう望んでも
どう思うかは相手次第なのです。

よほど空気のような存在にならなければ無理・・・・?
いえ、空気でさえ、ごくたまに思い出しては
「空気がなければ生きていけない」とありがたがってくれる人もいる・・・。
それなら山奥で仙人のような生活をすればいいかもしれませんが
それでは誰の役に立つこともできないので
あまり存在の意味はない様な気がします。
賢治はそんなことを望んだわけではないと思うのですが・・・

あることがきっかけで、
もしかして、これは逆説法なのではないか?
という考えが浮かびました。

相手に褒められも苦にもされないのではなく
褒められようが苦にされようが、全く影響されない自分である、ということ。
そのような境地にあることなのではないか。

人によく思われたい、
感謝されたい、
少しでも賢く思われたい、
優しいと思われたい・・・

人の反応を気にして日々すごしていたとき
どうしようもない無力感や焦燥感に襲われること度々・・・
そんな時は、もう誰とも関わりたくない、とまで思うことも。

そんなとき、心に聞こえてきた声は
「それでいいじゃないですか」


私はどう繕っても私でしかない、
装うことで疲れるより
ありのままの自分をさらけだし、やりたいことをやろう、
言いたいことを言おう、と思ったら
気持ちがとても楽になりました。

感謝されるから良いことをするのではなく
そうすべき、と思うからする。
反応が見たくてするのではなく
自分がしたいからする。

それならたとえ人から何も返ってこなくても
平らな心でいられる。
穏やかに笑ってすごせる。
それが「イツモシヅカニワラッテヰル」ということなのかもしれないなぁ・・・
そんなふうに感じたのです。

とはいえ、煩悩のかたまりみたいな今の自分。
なかなか「サウイフモノニ」なることはできませんが・・・
・・・ガンバリマス。
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by signaless5 | 2010-03-23 22:18 | 思うこと

賢治とBOBは・・・

少し前から、ツィッターなるものを始めてみました。
(「読んでるブログ」からもとべますので覗いてみてくださいネ)
そのなかで以前「宮沢賢治とニール・ヤングの共通点は、二人とも満月の下で踊る」
とつぶやいたことがあります。

きっと自分の好きになるものには
何か共通点があるはずだ、と考え
思いついたのが、その「満月の下で・・・」というものだったのですが。

それなら、宮沢賢治とボブ・ディランとは
なにか共通点があるだろうか・・・と。
しばらくは何も浮かびませんでしたが
ふと、凄い(?)共通点を見つけてしまいました。

それは、「作品が進化する」ということです。

宮沢賢治の作品は、発表されたものそうでないものに関わらず
何度も手入れされ、変化しています。
しかもかなり大幅に変えられることはざらにあります。

しまいには詩などは、ごっそりとそぎ落とされて
数行の文語詩へと・・・。
賢治にとっては作品は「生き物」だったのでしょうか。

ボブ・ディランも、同じようなことが言えると思います。
彼の曲は、最初にリリースされた時と
ライブで演奏される時とでは、
まるで全く違う作品のようなものがたくさんあります。
リズムもテンポもアレンジも、原形をとどめていないのです。

時代や自身の気持ちや考えによって
静かなアコースティックギターの弾き語りが
激しいロックになったり
ジャズやオールドアメリカンスタイルのように渋くなったりと
変化していくのです。

しかも若い頃につくった歌詞でも
何年たっても古くならないとか
私自身が、何年もたってからその意味や深さに気づくとか・・・。

自分自身の変化とともに
作品も変化させる。
しかしその中には不変の芯のようなものがちゃんと存在している。

「変えない」ということは実は古くなってしまう、ということであり
実は変わってしまうことで、
「変化させる」ことは実は流れに合っていつまでも新鮮で新しい、
つまり「本当の意味で変わらない」ということかもしれません。

生まれも育ちも性質もまったく違う様に見える二人の
意外な、しかし実に稀な共通点だと思うのですが・・・

「こじつけだっ」とか、「それがどうしたっ」という声が聞こえてきそうですね・・・(^^;)
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by signaless5 | 2010-03-22 20:33 | 思うこと

早池峰神楽

昨日の日経新聞の夕刊(3月9日付)に
「早池峰神楽、ロシア公演へ」の記事が。

(前略)現在、サンクトペテルブルグに住むエカテリーナさんが早池峰神楽と出会ったのは、岩手大学大学院に留学していた約3年前。躍動感あふれる演者の身のこなしと打ち鳴らされる太鼓やかねのリズムが「地球の鼓動」のように感じたという。
その時の感動が忘れられす、ロシアでの公演を実現させたいとの思いを持ち続け、サンクトペテルブルグ大の日本文化研究会に勤務する傍ら、留学時代の日本の友人らを頼りに交渉に奔走した。
出演するのはエカテリーナさんと交流のあった花巻市の大償神楽保存会のメンバー。(以下略)


1996年の宮澤賢治生誕100年祭に行ったとき
花巻の宮沢賢治記念館前の前庭では胡四王神楽が行われていました。
その時の感動とともに
舞手のなかに眼涼しい美少年がいて
私はその子ばかり目で追っていたのを思い出しました・・・。


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by signaless5 | 2010-03-10 09:44 | 思うこと

津波

1896年には15メートル、
1933年には10メートルの津波が
三陸地方を襲ったと今朝の新聞コラムにありました。

賢治の生誕と逝去の年であることはよく言われることですが
津波の大きさを見ると
今回の警報がでた「2~3メートル」というのでさえ
どんな被害がでるかと気が気でなかったことを思うと
それがどれほど恐ろしいことであったかが
実感として迫ってきました。

いままでは
「賢治の生涯をドラマチックにしたい気持ちもわかるが、そんなのただの偶然に近い」
と思っていましたが(我ながらなんという天の邪鬼!)
やっぱり、たとえそうであっても
その規模の大きさと
「そんなことはじつにまれ」なことに
素直に驚いています。
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by signaless5 | 2010-03-01 09:42 | 思うこと

但し今後の繋累は断じて作らざる決心に御座候

大正7(1918)年、9月27日 保阪嘉内あて書簡88の中の一文です。
少し前のことですが、この書簡を読んで
この部分に愕然としてしまいました。

これまでもこの書簡は何度も読み、
たしかこのようなことについて
読んだか何かした記憶もあるのですが・・・。
実感としてわかってはいなかったのだと思います。

賢治22歳。
ちょうど、稗貫群土性調査実地調査を完了した時です。

その前後の書簡を見てみると
嘉内あては83aの8月推定のものがその前で
書簡89の10月1日消印の葉書が後です。
いずれもふつうの口語体で書いてあり
この書簡88だけが候体で、違和感すらあります。

前後の83aと89には共通して
「落ちぶれる」という言葉もあります。

先が見えない不安と焦り、
葉書(書簡84)で河本義行につぶやいた淋しいこころ。

そんな中で、文中でも、この一行
「但し今後の繋累は断じて作らざる決心に御座候」
というのは唐突です。

なにゆえに
賢治はこのような決心を
早々と持つに至ったのでしょうか。

筆が滑った、若気のいたり、とかいうことではなく
ちょうど調査が終了した報告もかね、
改まって今後の身の振り方を
嘉内に伝えたかったのかもしれません。
それだけに賢治の決意の重さを感じるのです。
この時の“決心”が、賢治の一生を貫いていたのだという気がします。

そうだとすれば
「なぜ」という気持ちと
たまらなく切ない気持ちで
胸が締め付けられるようです。

これまで私は
愛する者を失う体験から
他者と深い繋がりを持つことを避けるようになったか、とか
羅須地人協会の活動するうちに
結婚を断念していったように私はとらえていましたが
そうではなく
賢治はもっと早いうちに
自分は誰とも結婚はしないと決めていた・・・。

やはり愕然とせずにはおれないことでした。


 ※<追記> この記事を書いた直後、賢治のこの書簡においての「繋累」の意味について、これを“妻子”とすることには大いに疑問があるという指摘を頂きました。私も知識&勉強不足であり自信を持ってこうだとはいいきれません。ただ、私としてはやはり賢治はけっこう早い時期から自分の結婚についてはあきらめるという方向にあったのではないかという思いは捨て切れず、あえてこのままこの記事は残すことにしました。

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by signaless5 | 2010-02-04 13:02 | 思うこと

今日の新聞に作家のリービ英雄さんの記事が載っていました。

「古くから日本人は世の中が移ろいやすく
変わりやすいことを知り、変化に耐える力をもっていたのに、
現代人は安定ばかりを求めたがる」

そして「『かりそめ』という言葉に、古くから日本語に含まれる
大切な世界観がある」という。

現代では一時的とかその場限りといった意味で軽くとらえられているが
古代では命や恋がはかなく切ない様を言い表し
極めて重い意味として使われてきた、と。


All things must pass.
すべては移り変わってゆく。

どんなに変わらないと見えるものも必ず変化する。
人の心も移りゆく。
どんなに愛し合っていても別れは必ず来るし
どんなに深い悩みがあっても、夜は必ず明けるのと同じように
いつかは解決する。

変化は恐れてはならないのかもしれません。

「かりそめの恋」となどというと、
軽々しくてまがい物のようにとらえられがちですが
かりそめであるからこそ、真実があるかもしれない・・・。
(いえ、そういうものを
望んでいるわけでは決してアリマセン)

変化する時間が長いか短いかの違いだけであり
すべては移り変わってゆく。

だからこそ、一瞬一瞬が大切で愛おしく
一期一会として人との繋がりを慈しみ
この一生を大事に生きようと思えるのではないでしょうか。

いいことばかりではないけれど
悪いことばかりでもないはず。

この世は「かりそめの世」ということもできる。

私たちは皆、この仮の世の中に仮の姿で現れる。
この世にあるのは現象だけ。
しかし仮の姿だからといっておろそかにしていいというわけではありません。


保阪嘉内は退学になりました。けれども誰が退学になりましたか。又退学になりませんか。あなたはそれを御自分の事と御思ひになりますか。誰がそれをあなたの事ときめましたか 又いつきまりましたか。私は斯う思ひます。誰も退学になりません 退学なんと云ふ事はどこにもありません あなたなんて全体始めから無いものです けれども又あるのでせう
     (書簡50 保阪嘉内あて 大正7年3月20日前後 より)

突然の云われない除名処分を受けても
それがなんだというのだ、
それは現象のひとつにすぎないではないか。
大事なのは、その現れた現象にどのように対処するか、
どのような作用をする魂であるか、ということではないのか。

すべては移り変わってゆく
かりそめの世界を

リービ英雄さんはいう。
「現代で最『仮』のものは、米国流の資本主義。貨幣経済は常に数字のまやかしに陥る可能性をはらんでいる。数字だけで計るような経済成長を重視する物の見方だが、世の中がずっと成長できるはずがない。世界の多くの人は安定を求めたがるが、安定は長く続かない。世の中は『かりそめ』。変化を恐れない、厳しい状況になっても耐える力が今、必要だと思う」

私もその通りだと思う。
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by signaless5 | 2010-01-26 22:51 | 思うこと