賢治が残した原稿のほとんどは未完成のままで
もしかしたらすべてがそうだと云ってもいいかもしれません。

その膨大なテキストを整理し、読み解いて
「校本」「新修校本」さらには「新校本」へと編み上げてくださった方々のおかげで
今現在私たちは賢治の作品を読み味わうことができます。

賢治の場合は非常に特殊で
亡くなる直前まで凄まじく手を入れ続けたことや
用紙の表裏を使ったり、一度は反故にしたものの裏に書いたりしていて
作品の最終形を定めるのが非常に困難だということ・・・。
その作業がどれほどの時間と労力を要したかは
私の想像を遙かに超えたものだと思います。

詩や童話を読むとき
それを思いだすたび
自然と頭を下げたい気持ちになります。

先日、その編者のお一人、入沢康夫氏の
『プリオシン海岸からの報告』(筑摩書房)という本を購入しました。
(今頃??と笑われそうなくらい必須の書籍ではなかったかと思い、
あらためて恥ずかしくなりますが)

その中に「境内」という詩のテキスト発見の経緯が書かれていました。
それは、それまでに明らかになっていた詩「(そのまっくらな巨きなものを)」と
「(みんな食事もすんだらしく)」という詩をつなぐものです。
以下引用します。
今回の、校本全集刊行に当たっての草稿再調査の間に、詩稿束の一つの中から、一枚の詩稿が出てきた。賢治が自作して使用していた罫がガリ版で刷られた詩稿用紙で、その表裏には、全面に毛筆で黒々と白秋の短歌が習字されている。ところが、よく見ると、その習字によってかなりの部分が塗り消されるような形になっているが、この紙の両面には、もと鉛筆で口語詩が記されていたことがわかる。墨の字の下になっている字は、読み取るのが仲々困難であったが、光に斜めにすかしたり、拡大鏡の助けを借りたりしながら、長時間かかってようやく読み解いてみると、そこに、これまで誰も読んだことのない四十六行の詩が現れてきたのである。



そしてもう一つ、「薤露青」という詩について。
宮沢賢治に「薤露青」という詩がある。いや、「ある」というより「あった」というべきかも知れない。「一六六」なる作品番号と、「一九二四,七,一七」の日付とを持つこの作品は、音楽用五線譜ノートからとりはずされたと覚しい一葉の紙に、いったんは硬めの芯の鉛筆を使い、きちんとした字体と字配りで書き込まれながら、のちに全面的に消しゴムで抹消されているからである。

そのようにして発見された紙片を
目を凝らして判読したものだということです。

なんということでしょうか。
このことは私には非常に感動的で
感慨深いものがあります。

この二つの詩「境内」と「薤露青」は、どちらも
賢治のその時々の状況はもちろん
心情の奥深くを伝えているものであり
宮澤賢治という人を知る上で
非常に重要な「鍵」になるといってもいいような
作品ではないかと私は思います。
しかも「薤露青」のモチーフは、「銀河鉄道の夜」へとつながるものです。

それらが実は賢治自身の手でいったんは消されていた、という理由は
そらはやはり、その詩の内容から想像するに
作者としてはあまりに生々しかったからなのでしょうか。

賢治は生前、それらが人目に触れることを
望んでいなかったのかもしれませんが
今、この二つの詩を噛みしめる時
もしかしたらそれは
時を経て
賢治がこれらの作品をプリオシンコーストから
私たちによこしてくれたということではないかと思ったりもし、
大変な苦労の末、読みやすい形にして
私たちに届けてくださった先生方にさらに深い感謝の思いを抱きます。



 境内
 

   みんなが辨当を食べてゐる間
   わたくしはこの杉の幹にかくれて
   しばらくひとり憩んでゐやう
   二里も遠くから この野原中
   くろくわだかまって見え
   千年にもなると云はれる
   林のなかの一本だ
   うす光る巻積雲に
   梢が黒く浮いてゐて
   見てゐると
   杉とわたくしとが
   空を旅してゐるやうだ
   みんなは杉のうしろの方
   山門の下や石碑に腰かけて
   割合ひっそりしてゐるのは
   いま盛んにたべてゐるのだ
   約束をしてみな辨当をもち出して
   じぶんの家の近辺を
   ふだんはあるかないやうなあちこちの田の隅まで
   仲間といっしょにまはってあるく
   ちょっと異様な気持ちだらう
   おれも飯でも握ってもってくるとよかった
   空手で来ても
   学校前の荒物店で
   パンなぞ買へると考へたのは
   第一ひどい間違ひだった
   冬は酸へずに五日や十日置けるので
   とにかく売ってゐたのだらう
   パンはありませんかと云ふと
   冬はたしかに売ったのに
   主人がまるで忘れたやうな
   ひどくけげんな顔をして
   はあ? パンすかときいてゐた
   一つの椅子に腰かけて
   朝から酒をのんでゐた
   眉の蕪雑なぢいさんが
   ぢろっとおれをふり向いた
   それから大へん親切さうに
   パンだらそこにあったっけがと
   右手の棚を何かさがすといふ風にして
   それから大へんとぼけた顔で
   ははあ食はれなぃ石(セキ)バンだと
   さう云ひながらおれを見た
   主人もすこしもくつろがず
   おれにもわらふ余裕がなかった
   あのぢいさんにあすこまで
   強い皮肉を云はせたものを
   そのまっくらな巨きなものを
   おれはどうにも動かせない
   結局おれではだめなのかなあ
   みんなはもう飯もすんだのか
   改めてまたどらをうったり手を叩いたり
   林いっぱい大へんにぎやかになった
   向ふはさっき
   みんなといっしょに入った鳥居
   しだれのやなぎや桜や水
   鳥居は明るいま夏の野原にひらいてゐる
   あゝ杉を出て社殿をのぼり
   絵馬や格子に囲まれた
   うすくらがりの板の上に
   からだを投げておれは泣きたい
   けれどもおれはそれをしてはならない
   無畏 無畏
   断じて進め




一六六
     薤露青

                  一九二四、七、一七、
 
   みをつくしの列をなつかしくうかべ
   薤露青の聖らかな空明のなかを
   たえずさびしく湧き鳴りながら
   よもすがら南十字へながれる水よ
   岸のまっくろなくるみばやしのなかでは
   いま膨大なわかちがたい夜の呼吸から
   銀の分子が析出される
    ……みをつくしの影はうつくしく水にうつり
      プリオシンコーストに反射して崩れてくる波は
      ときどきかすかな燐光をなげる……
   橋板や空がいきなりいままた明るくなるのは
   この旱天のどこからかくるいなびかりらしい
   水よわたくしの胸いっぱいの
   やり場所のないかなしさを
   はるかなマヂェランの星雲へとゞけてくれ
   そこには赤いいさり火がゆらぎ
   蝎がうす雲の上を這ふ
     ……たえず企画したえずかなしみ
       たえず窮乏をつゞけながら
       どこまでもながれて行くもの……
   この星の夜の大河の欄干はもう朽ちた
   わたくしはまた西のわづかな薄明の残りや
   うすい血紅瑪瑙をのぞみ
   しづかな鱗の呼吸をきく
     ……なつかしい夢のみをつくし……
   声のいゝ製糸場の工女たちが
   わたくしをあざけるやうに歌って行けば
   そのなかにはわたくしの亡くなった妹の声が
   たしかに二つも入ってゐる
     ……あの力いっぱいに
       細い弱いのどからうたふ女の声だ……
   杉ばやしの上がいままた明るくなるのは
   そこから月が出やうとしてゐるので
   鳥はしきりにさはいでゐる
     ……みをつくしらは夢の兵隊……
   南からまた電光がひらめけば
   さかなはアセチレンの匂をはく
   水は銀河の投影のやうに地平線までながれ
   灰いろはがねのそらの環
     ……あゝ いとしくおもふものが
       そのまゝどこへ行ってしまったかわからないことが
       なんといふいゝことだらう……
   かなしさは空明から降り
   黒い鳥の鋭く過ぎるころ
   秋の鮎のさびの模様が
   そらに白く数条わたる
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by signaless5 | 2010-05-01 09:05 |

    
二十日月かざす刃は音無しの
     虚空も二つときりさぐる
            その龍之助

風もなき修羅のさかひを行き惑ひ
     すすきすがるるいのじ原
           その雲のいろ

日は沈み鳥はねぐらにかへれども
     ひとはかへらぬ修羅の旅
            その龍之助


        (「大菩薩峠の歌」)
      

今日、4月8日は賢治が詩「春と修羅」を書いた日です。

この「大菩薩峠の歌」は、
賢治が、愛読していた中里介山の小説『大菩薩峠』に
触発されて作詞作曲したものです。

「日は沈み鳥はねぐらにかへれども」というところは
文語詩五十篇にある〔きみにならびて野に立てば〕という詩を
思い出します。

鳥は巣を作る、つまり人はみな暖かい家庭をつくるけれど
修羅にはそれは許されない、ということでしょうか。
机龍之助と自分の姿を
どこか重ねていたように思います。

ひとはかえらぬ修羅の旅・・・
この歌を聴きながら私はよく一緒に口ずさむのですが
賢治は何を想ってこの詞を書き、
歌っていたのだろう・・・と思うと
いつも途中で歌えなくなってしまいます。



<〔きみにならびて野に立てば〕先駆形>

 きみにならびて野に立てば
 風きらゝかに吹ききたり
 柏ばやしをとゞろかし
 枯れ葉を由貴にまろばしぬ

 峯の火口にただなびき
 北面に藍の影置ける
 雪のけぶりはひとひらの
 火とも雲とも見ゆるなれ

 「さびしや風のさなかにも
 鳥はその巣を繕はんに
 ひとはつれなく瞳澄みて
 山のみ見る」ときみは云ふ

 あゝさにあらずかの青く
 かゞやきわたす天にして
 まこと恋するひとびとの
 とはの園をば思へるを
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by signaless5 | 2010-04-08 21:17 |

好きなフレーズ〈1〉

x はねえ、

   顔の茶いろな子猫でさぁ

y の方はさ、
y の方はさ

   自転車の前のラムプだとさぁ……



日常のふとした拍子に
賢治の詩が 頭に浮かぶことがあります。

そのような
印象に残っているフレーズ、好きなフレーズを
ときどき、思いつくまま挙げてみようと思っています。

まずは私の大好きなこのフレーズのある詩から。

1928,6,19の日付のある
 「神田の夜」  という作品です。

雨降る夜に騒然とした都会のなかで
詩人はひとり幻想の世界に遊ぶ・・・

数式に子猫の顔や自転車のランプを当ててしまうなんて!!
今でこそナンセンスは広く理解されますが
当時において、この賢治のアバンギャルドはいったい
どこから来たのでしょうか。
なんて素敵!とため息がでそう。

賢治の淋しさと街の色とりどりの光が夜と雨に溶け合い
なんとも甘い感傷・・・が私の胸にひろがるのです。


   神田の夜

                  一九二八、六、一九、

   

   十二時過ぎれば稲びかり

   労れた電車は結束をして

   遠くの車庫に帰ってしまひ

   雲の向ふであるひははるかな南の方で

   口に巨きなラッパをあてた

   グッタペルカのライオンが

   ビールが四樽売れたと吠える

       ……赤い牡丹の更沙染

         冴え冴え燃えるネオン燈

         白鳥の頸 睡蓮(ロトス)の火

         雲にはるかな希望をのせて

         いまふくよかにねむる少年……

   雲の向ふでまたけたたましくベルが鳴る

   ベルがはげしく鳴るけれども

   それも間もなくねむってしまひ

   睡らないのは

   重量菓子屋の裏二階

   薄明 自働車運転手らの黄いろな巣

   店ではつめたいガラスのなかで

   残りの青く澱んだ葛の餅もひかれば

   アスティルベの穂もさびしく枯れる

            x八乗マイナスyの八乗をぼくが分解したらばさ

            残りが消えてxマイナスyが12になったので

            すぐ前の式から解いたらさ

            xはねえ、

               顔の茶いろな子猫でさぁ

            yの方はさ、

            yの方はさ

               自転車の前のラムプだとさぁ……

   いなづまがさし

   雨がきらきらひかってふれば

   ペーヴメントも

   道路工事の車もぬれる

       ……そらは火照りの

         そらは火照りの……

           (二十年后の日本の智識階級は

            いったいどこにゐるのであらう)

            Are you all stop here?

                said the gray rat.

            I don't know.

                   said Grip.

            Gray rat = is equal to Shuzo Takata

            Grip equal......

            Grip なんかどうしてとてもぼくだけでない

       さうです夜は

       水色の水が鉛管の中へつまってゐるのです

       ぼくとこの先生がさぁ

       日本語のなかで英語を云ふときは

       カナで書くやうごくおだやかに発音するとさう云ってたよ

   湯屋では何か

   アラビヤ風の巨きな魔法がされてゐて

   夜中の湯気が行きどこもなく立ってゐる

   

     シャッツはみんな袖のせまいのだけなんだよう

     日活館で田中がタクトをふってゐる
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by signaless5 | 2010-03-29 21:32 |

手凍えだ・・・「風林」

  風林    

     (かしはのなかには鳥の巣がない
      あんまりがさがさ鳴るためだ)
   ここは艸があんまり粗(あら)く
   とほいそらから空気をすひ
   おもひきり倒れるにてきしない
   そこに水いろによこたはり
   一列生徒らがやすんでゐる
     (かげはよると亜鉛とから合成される)
   それをうしろに
   わたくしはこの草にからだを投げる
   月はいましだいに銀のアトムをうしなひ
   かしははせなかをくろくかがめる
   柳沢(やなぎざわ)の杉はなつかしくコロイドよりも
   ぼうずの沼森(ぬまもり)のむかふには
   騎兵聯隊の灯も澱んでゐる
   《ああおらはあど死んでもい》
   《おらも死んでもい》
     (それはしよんぼりたつてゐる宮沢か
      さうでなければ小田島国友
         向ふの柏木立のうしろの闇が
         きらきらつといま顫えたのは
         Egmont Overture にちがひない
      たれがそんなことを云つたかは
      わたくしはむしろかんがへないでいい)
   《伝さん しやつつ何枚、三枚着たの》
   せいの高くひとのいい佐藤伝四郎は
   月光の反照のにぶいたそがれのなかに
   しやつのぼたんをはめながら
   きつと口をまげてわらつてゐる
   降つてくるものはよるの微塵や風のかけら
   よこに鉛の針になつてながれるものは月光のにぶ
   《ほお おら……》
   言ひかけてなぜ堀田はやめるのか
   おしまひの声もさびしく反響してゐるし
   さういふことはいへばいい
     (言はないなら手帳へ書くのだ)
   とし子とし子
   野原へ来れば
   また風の中に立てば
   きつとおまへをおもひだす
   おまへはその巨きな木星のうへに居るのか
   鋼青壮麗のそらのむかふ
    (ああけれどもそのどこかも知れない空間で
     光の紐やオーケストラがほんたうにあるのか
     …………此処(こご)あ日あ永(な)あがくて
         一日(いちにぢ)のうちの何時(いづ)だがもわがらないで……
     ただひときれのおまへからの通信が
     いつか汽車のなかでわたくしにとどいただけだ)
   とし子 わたくしは高く呼んでみやうか
    《手凍(かげ)えだ》
    《手凍えだ?
     俊夫ゆぐ凍えるな
     こないだもボダンおれさ掛げらせだぢやい》
   俊夫といふのはどつちだらう 川村だらうか
   あの青ざめた喜劇の天才「植物医師」の一役者
   わたくしははね起きなければならない
    《おゝ 俊夫てどつちの俊夫》
    《川村》
   やつぱりさうだ
   月光は柏のむれをうきたたせ
   かしははいちめんさらさらと鳴る



1923年6月3日の日付のあるこの詩は
『無声慟哭』3部作の後、
つまり妹トシが亡くなってから約半年後になって
やっと書かれた詩の第一号、といってもいいのでしょうか。
ただし、この詩と「白い鳥」の2作は
『無声慟哭』の章に含まれています。

私は、高校生の頃この詩を読み
詩の最後の部分、「俊夫」の手が凍える、というくだりが
とても好きでした。
好き、というより、あこがれのようなものでしょうか。

生徒達を連れて岩手山へ行ったときの情景ですが
その一人の手が凍えてしまった。
ぼんやりとトシのことを考えていた賢治は
その声を聴いて、跳ね起きる。

このあと賢治はどうしたのだろうか。
俊夫の手を握って温めてやったろうか。
それともポケットに入れてやっただろうか・・・。

私はなぜ、「俊夫」でなかったのだろう。
冷たい指先を賢治に温めてもらう俊夫でなかったのだろう。
そんなバカなことを考えている高校生だった。

今の私が、「手が凍えた」と言えば
「甘えるな!」といって差し出した手をひっぱたかれるのがオチだよな~。

そんなことを考えていたら淋しくなった。

しかし。
ふと、ちがうぞ、と思った。

私は、誰かに凍えた手を温めてもらうのではなく
誰かの手を温めてあげられるようになりたいと。

たとえ自分がどんな悲しみの底にいようと
賢治がそうであったように・・・。

そんなふうに感じたのです。

賢治さん、私はあの頃より
 少しは進歩できたでしょう・・・?
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by signaless5 | 2010-03-12 20:59 |

ミザンスロピー

四〇九      冬

                  一九二五、二、五、    

   がらにもない商略なんぞたてやうとしたから
   そんな嫌人症(ミザンスロピー)にとっつかまったんだ
     ……とんとん叩いてゐやがるな……
   なんだい あんな 二つぼつんと赤い火は
     ……山地はしづかに収斂し
       凍えてくらい月のあかりや雲……
   八時の電車がきれいなあかりをいっぱいのせて
   防雪林のてまへの橋をわたってくる
     ……あゝあ 風のなかへ消えてしまひたい……
   蒼ざめた冬の層積雲が
   ひがしへひがしへ畳んで行く
     ……とんとん叩いてゐやがるな……
   世紀末風のぼんやり青い氷霧だの
   こんもり暗い松山だのか
     ……ベルが鳴ってるよう……
   向日葵の花のかはりに
   電燈が三つ咲いてみたり
   灌漑水(みづ)や肥料の不足な分で
   温泉町ができてみたりだ
     ……ムーンディーアサンディーアだい……
   巨きな雲の欠刻
     ……いっぱいにあかりを載せて電車がくる……



『春と修羅 第2集』の中の一作。
 灌漑水(みづ)や肥料の不足な分で  
 温泉町ができてみたりだ
とあるように、自らも花壇工作を通じて関わった花巻温泉への批判だけでなく
『イーハトーブ温泉学』で岡村民夫氏も述べているように
「賢治の花巻温泉批判は、抜き差しならない自己批判」であると思います。

農民が貧困と飢餓に苦しむ一方で
裕福層のための巨大レジャーランドがある・・・。
資本家はそこからまた利益を吸い上げて財をふくらませる。

自分には始めから見えていた構図ではないか・・・と。
「美しいもの」を創りだすことに喜びを見いだしていたが
それを表現できたのは、一部の階層の目に触れる場所でしかない。

自分が思い描いたものとは全く別のものが据えられる。
(向日葵の花のかはりに
 電燈が三つ咲いてみたり)

こんなはずじゃなかった・・・
俺の望むものはこんなものじゃない・・・
と思ったかどうか。

いずれにしても
賢治のいう「嫌人症(ミザンスロピー)」とは
人を嫌う、というよりも
自己嫌悪に近いものだったのではないでしょうか。
自信喪失。
深いブルー。
そして詩人は、戦慄すべき己の影を見る・・・。

四一一      未来圏からの影

                  一九二五、二、一五、    

   吹雪(フキ)はひどいし
   けふもすさまじい落磐
     ……どうしてあんなにひっきりなし
       凍った汽笛(フエ)を鳴らすのか……
   影や恐ろしいけむりのなかから
   蒼ざめてひとがよろよろあらはれる
   それは氷の未来圏からなげられた
   戦慄すべきおれの影だ
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by signaless5 | 2010-03-07 11:06 |

とらよとすれば・・・

賢治の「習作」という詩にある

 とらよとすればその手からことりはそらへとんで行く


このフレーズは、保阪嘉内の作った「勿忘草の歌」にもあることから
私はこれが二人の間で特別なモチーフだったのではないかと考えました。

これは1919年(大正8年)に上演された
芸術座の「カルメン」で歌われる「恋の鳥」(作詞・北原白秋/作曲中山晋平)が
下敷きとなっているようです。

 捕へて見ればその手から
 小鳥は空へ飛んでゆく

 泣いても泣いても泣ききれぬ
 可愛いい可愛い恋の鳥

この3番の歌詞は

 捕らよとすれば飛んで行き
 逃げよとすれば飛びすがり
 好いた惚れたと追つかける
 翼火の鳥恋の鳥

となっていて、最初私は
賢治か嘉内のどちらかが
間違って覚えてしまい
それを他方に伝えたため
ふたりでそのまま覚えてしまっているのかも・・・と思いました。

しかし、この歌は当時流行し、
あちこちで歌われたり聴かれたりしたようですから
どうもそうではないような気がします。
特に歌舞伎や演劇が好きな嘉内が、いつまでも間違えたままである
ということは考えにくいのではないでしょうか。

つまりどちらかがあえて
「恋の鳥」とは違うフレーズを書いた可能性もあるはずです。


賢治と嘉内が「カルメン」を見たか(→)ということについては
hamagakiさん(→)が詳しく検証してくださっています。

賢治が見た可能性はあっても
嘉内が見た可能性は低いと考えて良いかもしれません。

私は先の記事で大正8年の初め頃に
賢治と嘉内は東京で会ったのではないかと書きましたが
賢治がすでにこのとき「カルメン」を見た後であれば
嘉内にその話をした可能性は大きいと思います。

大正10年7月まで会わなかったとしても
なにかのきっかけで「そういえば2年前にカルメンを見たよ」という話になっても
おかしくはありません。
たとえその後に深刻な話があるとしても
会っていきなり本題に入るひとはあまりいないように思います。

ただ、その時には歌の歌詞のことまで話したかどうかといえば
よほどでないと細かなことまでは話さないであろうし
先にも書いたように、
賢治が間違った歌詞を教えて
嘉内もずっとそのままにしておく、というのも無いような気がします。

とすれば、
嘉内に「カルメン」のことを話す話さないにかかわらず
賢治が歌詞を違えて覚えたか
時がたつにつれ賢治の中で歌詞が変わってしまったか、
ということなのかもしれません。

今ある事実は
賢治が「習作」に「とらよとすれば・・・」と書いた。
嘉内も全く同じフレーズを自作の歌に取り入れた・・・。

と、いうことは・・・・。

実は、私のブログにいつもコメントをくださるsoraさんが以前、
 <賢治の送った『春と修羅』を読んで
 嘉内があえてそのフレーズを
 そのまま尊重して取り入れ「勿忘草の歌」という作品にしたのではないか>
というようなことを私に話して下さったことがありました。

その時にはそのまま深く考えずにいてしまったのですが
このところ、賢治と嘉内が大正8年の初頭に東京で会った可能性や
書簡102a についてのことをあれこれ考えているうちに
私にもどうしてもその可能性が大きいように思えてきました。

つまり、やはりこれは二人だけの“言葉”なのではないでしょうか。

賢治は「習作」を書いたときには
確かに大正8年の初め頃のことを思い出していたかもしれません。

嘉内も「習作」を読んでその頃のことを思い出した・・・。

ほろ苦かったか
甘酸っぱかったか・・・。
どっちにしても、これは深い友情がなければ
あり得ないことではないでしょうか。
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by signaless5 | 2009-12-30 23:24 |

カンジョウ

   アラユルコトヲ
   ジブンヲカンジョウニ入レズニ
   ヨクミキキシワカリ
   ソシテワスレズ

宮沢賢治の詩は知らなくても
「雨ニモマケズ」を知らない人はいないくらいですね。

私も最初に知ったのは子どものころ、
幼稚園か小学校低学年くらいだったと思います。
父に連れられて行った近所のお寿司屋さんに
この「雨ニモマケズ」が書かれた暖簾がかかっていたのです。

「うさぎおいし かのやま」を
ウサギが美味しい・・・と思い違いをして覚えてしまうように
私はなぜか「ジブンヲカンジョウニ入イレズニ」というところを
《勘定》ではなく《感情》だと思いこんでいました。

「あらゆることを自分を感情にいれず」というのは
「自分のことで怒ったり泣いたりせずに」というふに考えていたのです。

今なら《勘定》の意味にとらえることができるのでしょうが
なにせ知恵のない頭が、更に小さな頭だったせいでしょう。

ふつうは「感情を入れる」という表現はあっても
「感情に入れる」という表現はないですよね。

それがわかっていながら
いまもまだここを読むたびに「感情」という言葉が
頭のスミをよぎってしまうのです。

でも「勘定に入れない」にしても「感情に入れない」にしても
自分のことは考えずに、という意味では
似たようなものだとは思いますが・・・・(ちがうか。)

ちなみに、その暖簾を読んだとき
「こんな説教クサイことを言うヤツはキライだ」と思った記憶が・・・・

その頃から素直じゃなかったということですね・・・(>_<)
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by signaless5 | 2009-12-10 19:12 |

西か北か。

      《北ぞらのちぢれ羊から

      おれの崇敬は照り返され

      天の海と窓の日おほひ

      おれの崇敬は照り返され》


『春と修羅』の「雲とはんのき」の部分です。

このパートは「ダルゲ」「図書館幻想」にも出てくるし
メロディをつけ歌曲にもしているくらいなので
賢治はよほどこのフレーズに愛着があったのでしょう。


以前から私は不思議に思っていることがありました。

「ダルゲ」など、初期に書かれたものには
〈北ぞらの〉という部分が〈西ぞらの〉になっていることです。

いつ変更されたのか。
それはなぜか。

少し調べてみて面白いことに気付きました。
『春と修羅』の初版本、つまり世に出た形は、〈北〉になっています。
印刷用原稿では〈西〉になっているのを、〈北〉に直した跡があります。
それ以前と思われる作品「ダルゲ」や「図書館幻想」では〈西〉です。
そして、『春と修羅』宮沢家本(=賢治が初版本に手入れたもののうち宮沢家に現存しているもの)では
この4行を含めた最初のほうがすっぽりと削除されています。

宮沢家本は、手元に置いて長期にわたって手入れをしたものでしょうか。
だとするとこの削除の時期を知るのは困難かもしれません。

「ダルゲ」や「図書館幻想」が、大正10年の東京でほぼ書かれたものだとすれば
この〈西〉から〈北〉への変更は
花巻に帰ってきてから、『春と修羅』の出版の直前ということになりそうです。

それではなぜ、西から北なのか。

この詩の意味は
私にはどうもよくわかりません。

西日に照らされたちぢれ羊を、聖なる窓から望む者・・・・
汚点ある旗・・・?
照り返される崇敬・・・?
硝子の蓑をまとった灰色のダルゲが
つめたい透きとおった声で歌い出す。

なんとなくぼんやりとしたイメージがあるだけです。

ただ、「ダルゲ」がもし保阪嘉内にイメージを重ねた人物だとしたら
西とは、東京から見た西、つまり嘉内の故郷山梨あたりということでしょうか。

ダルゲは、故郷のある西の空を見上げながら
じっと動かず作物の取れ高を心配している。
そしておれの気取った問いかけに振り返って冷ややかに笑う。

それでは、〈北〉とは?
東京から見た北?
花巻に帰った賢治は、岩手を“イーハトーブ”にしようとしました。
かつてダルゲから見た故郷を
今度は自分から見た故郷にすり替えたのでしょうか。
自分も、ダルゲがじっと額に手をかざして〈西〉ぞらを見つめていたのと同じように
〈北〉ぞらを見つめようとしたのでしょうか。

そしてそれは1923年の6月に、
賢治がじぶんで線を刻んだことによって
変化した心境だということでしょうか。

  (ひのきのひらめく六月に
   おまへが刻んだその線は
   やがてどんな重荷になって
   おまへに男らしい償ひを強ひるかわからない)
                        
                     
賢治はいったい何を心に決めたのでしょう。
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by signaless5 | 2009-11-30 19:18 |

1922.11.27

とし子の最後の食べ物は
兄の掬ってきたひとわんの雪
やさしい兄が掬ってきてくれたなつかしい蓴菜もようの椀に盛られた
天上の聖なる資糧

(あめゆじゆとてちてけんじや)

ほんとうにとし子がたのんだのか
それとも賢治が、どうしてもそんな気がして飛び出したのか

別れるこのときになって、
賢治は幼い日のとし子との遊びを
思い出したのだろうか

賢治の耳には、何度も何度も
ささやくように、うたうように
この声が響いている

(Ora Orade Shitori egumo)
とし子はまるで呪文のような別れの言葉を残して逝った

せめてもの、ひと椀の雪が
とし子への祈り


苦しむとし子をよそに
自分はほかのひとのことをかんがえながら森をあるいていた
あんなにも森を慕ったとし子なのに
自分はなにをしてやっただろうか

せめてもの、一枝の松の香りが
とし子への祈り


自分は精進のみちからかなしくつかれて
青ぐらい修羅を歩いているのに
とし子は一人さびしく往こうとする

なつののはらのちいさな白い花の匂いでいっぱいなのに
それさえも言ってやることができない
(わたくしは修羅をあるいてゐるのだから)

「信仰をひとつにするたつたひとりのみちづれのわたくし」であるのに
なんの力にもなってやれずに賢治は修羅をあるいている

それでもこんどはどうかきれいな頬をして
あたらしく天にうまれてくれ
そんなにじぶんのことばかりで
くるしまないようにうまれてきてくれ

         ※

いつのまにか、賢治の世界では
作品はイコール事実というような風潮があるような気がします。

「無声慟哭 3部作」もそうです。
これらは作品です。
限りなく賢治の心象に近いものだとは思いますが
逆にいうと、心象風景を忠実に伝えたいがために
modifiedされたともいえるのではないでしょうか。

それを考えずに、作品=事実としてしまうから
「永訣の朝」は、まだ死んでもいないのに「きょうのうちに」なんというのはおかしい、とか
トシが(あめゆじゆとてちてけんじや)なんて本当に言ったのか、などという
議論(?)がでるのではないでしょうか。

賢治がそういう論文を見たら、どんな顔をするでしょうか。
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by signaless5 | 2009-11-27 09:05 |

日付に二重括弧のある作品は7篇。

「春と修羅 (menntal sketch modified)」
「真空溶媒 (Eine Phantasie im Morgen)」
「蒼い槍の葉 (menntal sketch modified)」
「原体剣舞連 (menntal sketch modified)」
「永訣の朝」
「松の針」
「無声慟哭」

これら7篇の詩は、作品として“創られて”いるのだと思います。
他の作品が賢治が時には歩きながら手帳に書き付け
ほぼそのまま作品としたもの、
つまりほとんどその日にできあがった「スケッチ」であるのに対し
そのスケッチを元に(あるいは最初から?)
足したり引いたり、脹らませたり、繰り返したり・・・
一つの作品として創りあげたもののような気がします。
まるで一つの歌や曲のように。


詩集『春と修羅』の中で
(menntal sketch modified)と
(Eine Phantasie im Morgen)
という傍題がついているのは、7作中、最初の4作品だけです。
これは「修飾された心象スケッチ」という意味と
「朝のファンタジー」というような意味です。


では、なぜ他の作品に傍題がついているのに
無声慟哭3部作にはそれがついていないのか。

それは、この作品のテーマ・内容からして
そのような傍題はふさわしくないからではないでしょうか。

トシがなくなった11月27日、
賢治はとても心象スケッチなどをする状態にはなかったということ。
それは普通の感覚であればそうだと思います。

でも、約半年を過ぎてから、
ようやく賢治は挽歌を書き始めました。
その過程で、「その日」のことを思い返し
書き記すことができるようになった。
あるいはその必要性を感じて作品にしたのかも知れません。


「けふのうちに
とほくへいってしまふわたしのいもうとよ」

という呼びかけは
この詩を書いた時点で、再びあの日にもどって書かれたためです。
まさか「その日のうちにとほくへいってしまふ」では
書き手も読み手も、その日にはもどれないでしょう。
それではこの詩のすごさは出ません。
この臨場感は出てこないだろうし
この日の賢治とトシの心象世界には入れないと思います。

この詩を読むたびに私は
賢治とトシの別れたこの日にタイムスリップしてしまう。
自分が居合わせてもいないのに
この日の賢治が見えるような気がするのです。


当日には、描くことができなかった心象風景を
後になってから描いた。
当日のありのままのスケッチでは
伝えきれないものだったからこそ
無声慟哭3部作は、あのような形になった、
私はそんな気がします。

賢治が詩集『春と修羅』を、自分の心の軌跡として描きたかったのだとしたら
どうしても、それらを除くことはできない重要なことを後から描き加えた、
特に「春と修羅」と「無声慟哭」の3部作は、
そういうことなのではないかと思います。


ついでに言えば、「春と修羅」の日付は4月8日。
賢治は、釈迦生誕のこの日をわざわざえらんでつけたのだと思います。
そこにも何か深い意味を感じます。
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by signaless5 | 2009-11-25 19:44 |