保阪嘉内は甲府中学一年の時、ハレー彗星をスケッチしました。
1910年(明治43年)のことです。

今年はちょうどその100年後であることから、
今回の講演『ハレー彗星百周年記念企画 保阪嘉内が見た星空』が
韮崎市のアザリア記念会によって企画されました。


5月15日土曜日、
甲府市鶴舞公園内の甲府城趾・恩賜林記念館にて行われた
その講演会に私も参加してきました。

正午に新幹線で静岡へ、
それからワイドビューふじかわで甲府まで。
到着は4時。
迎えに来てくれたKちゃんと会場入りし、準備を少し手伝いました。

6時すぎ、地元のガイドさんの案内で謝恩塔に登って、
西の空を望みました。
お天気も良く、ちょうど夕陽が甲斐駒ヶ岳に落ちるところで
嘉内の描いたスケッチの山々がくっきりと見えて、あちこちで感嘆の声。
すぐ眼の前は甲府中学の寄宿舎があった場所で、
やはり嘉内はその辺りから、
ハレー彗星を観察しスケッチしたのに違いありません。

その後、恩賜林記念館に戻って講演会。
レトロで素敵な雰囲気の建物です。

最初に、中学生の嘉内と校長の大島正健が登場!
(アザリア記念会のM氏とS氏が扮しています)
当時の嘉内をとりまく状況を粋な演出で説明してくれました。

ちなみに、大島正健校長は札幌農学校の第一期生で、
クラーク博士の指導を受けた方です。
(有名な「少年よ、大志を抱け!」というのは正健が訳したのだそうです)
さらに、その頃の英語教師が野尻抱影で、
天文の世界では有名な「星の文学者」と呼ばれる方です。
嘉内はその抱影からハレー彗星のことを聞き、
自分も観察したのだと思われます。
嘉内は非常に恵まれた環境で中学時代を過ごしたのですね。


そして嘉内の次男・保阪庸夫氏は黒い帽子(賢治のような)を被って登場!
子供の頃の嘉内を中心に語ってくれました。
嘉内は小さい頃、石を拾って集めたり、草花を庭に植えてみたりして
遊んだということですが・・・はて、どこかの誰かとよく似ていますね。
そして農民に混じって土いじりが好きであったと。
その中で農村改革の夢を、小さい頃から抱くようになった。
芝居や芸術にも興味を持ち、
農民はこういうものに触れて楽しむべきだとの考えを持ったとも。
嘉内が亡くなった時、庸夫氏は10歳です。
それまでの間に父・嘉内といろんな話をした、とのことで
様々なことを鮮明に記憶されていることに、いつも驚きます。

親友が亡くなった時、嘉内は「早世論」なるもので
その死を悼んだという話もされていましたが、
これは、「人はやるべきことをやり楽しんだのちは、潔く次の世代に譲って
早く逝ってしかるべき」というものだそうです。
一見乱暴な考えのようですが
私はこれは、
「人生、その時々でせいいっぱい生きることが大事」
ということなのではないかな、と思います。
その嘉内自身も、41歳の若さでこの世を去るのですが
与えられた生を懸命に生きたのではないでしょうか。

そして次に、サイト『賢治の事務所』でお馴染み
宮沢賢治学会の加倉井厚夫氏による「保阪嘉内が見たハレー彗星」の講演。
まず、嘉内がスケッチした場所がほぼ特定された経緯を説明。
先ほど、実際に駒ヶ岳から地蔵・観音・薬師岳の連なりを見てきたので
実感として納得できました。

当時の日にちと時刻ごとにハレー彗星の位置を表した図や
スケッチに書かれた日付などから
嘉内が観察した日時を推測。
それだけでなく、嘉内がどういう手順でスケッチをしたかも推理されて、
非常に興味深い内容でした。

それと、野尻抱影が描いたスケッチと、嘉内のものとの
彗星の尾ほ方向がなぜ違うのかも解き明かしてくれて
まったく天文知識のない者にも非常にわかりやすく、
面白く楽しい講義でした。

奇しくも、嘉内がスケッチした日と同じ場所に
私たちがさっき見た夕陽が落ちていった・・・
ということはちょっと感動的でした。

こんな先生が、学校にいてくれたら
子供達はみんな星や宇宙に興味をもち、
未来の天文学者が増えるに違いないのに・・・と思いました。

思えば、一枚のスケッチ。
そこに詰まっている情報の多さ。

嘉内の書いた文字、
「銀漢ヲ行ク彗星ハ夜行列車ノ様ニニテ 遙カ虚空ニ消エニケリ」

賢治のいた花巻からは天候が悪く、
ハレー彗星は見えなかったといわれます。
嘉内は賢治に繰り返しその時自分が見た彗星の話をしたに違いありません。

野尻抱影の弟子に草下英明氏という
賢治と星の著書でも有名な天文研究家がおられました。
そして草下氏を師と仰いだのが加倉井さん。
ここにも不思議な巡り合わせが。

100年前に、嘉内が一枚のスケッチを描き
私たちが今そのときのことをあれこれ思い描き
嘉内の想いや賢治の想い、それぞれの人生、
そしてやっぱり、嘉内と出会わなければ
あの賢治はなかっただろうなぁ・・・
なんと素晴らしい出会いだろう、
賢治も様々な人に支えられて生きていた・・・
人と人の繋がり、現在にも続く不思議な繋がり・・・・
そんなことを最後に考えていたら
感無量な気持ちになってしまいました。
振り向いたKちゃん、あれ、この人なんでウルウルしている?と思ったかも・・・?

最後の拍手は盛大に惜しみなく
保阪庸夫氏と
加倉井厚夫氏に送られていました。


講演会終了後、お疲れ様の打ち上げに。
私も「座敷童」と化してこっそり紛れ込んだというわけで、
何故か一人多いぞ・・・と不思議に思われたはず・・・!?

韮崎で一泊し、次の朝あずさ1号に飛び乗って帰路につきました。
ちょっともったいないようなとんぼ返りでしたが
短い時間でも内容はぎゅっと濃縮され
とても充実したひとときを過ごさせて頂いて
おなかも心もいっぱいで帰ってきました。

何かに似てる・・・
そう、岩手=イーハトーブに行ったときのような感覚に似ている!
それもそうですよね。
ここには嘉内さんが生きているのですから・・・。

素晴らしいお話をしてくださった
庸夫先生と加倉井さん、
そしてお世話になった皆さんには
ほんとうに感謝です。

ちょっと(だいぶ?)無理をしてでも
山梨に出かけていって本当によかったと思います。
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by signaless5 | 2010-05-17 21:52 | 嘉内

2月8日

今日2月8日は
賢治の心友であった保阪嘉内の命日です。

「何を泣いているんだ。人は皆、こうして土に還ってゆくのだ。」

そう言い遺し、41歳の若さで逝ってしまいました。
嘉内らしい言葉ですが
まだまだやりたいことがあったはずです。

それになんとしても
幼い子供たちを残していくことが
一番辛いことだったでしょう。

しかし賢治もそうですが
嘉内もまた、彼を知り、想う人の心には
いつまでも生きているのだと思います。
(もちろん、私の心にも。)

会ったことはないけれど
(会ってみたかった!!)
嘉内という人のことは
私の心にもしっかりと刻まれてしまったのですから。

・・・嘉内さん、なんて寒い季節に
     あなたは逝ってしまったのでしょうか。
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by signaless5 | 2010-02-08 12:17 | 嘉内

「藤井青年団々歌」!

「宮沢賢治の詩の世界」のhamagaki様が
嘉内の作った「藤井青年団々歌」を演奏ファイル(MP3)にして下さったので
ふたたびリンクさせて頂きます。

「藤井青年団々歌」



私はこのイントロを聴いて
鳥肌がたつほどでした。

まさに白々と、爽やかに夜が明けゆくようではありませんか。

ともすれば、こういう歌はまるで軍歌?
という風な感じにもなってしまいそうですが
hamagaki様のアレンジは
嘉内の熱き想いのようなものがまっすぐに響いてくる気がします。

あらためて
嘉内が志したものが何であったかを
教えられたような気がしました。
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by signaless5 | 2009-12-07 18:53 | 嘉内

確かに、賢治と嘉内は
宗教上のことで激しく口論、あるいは対立したことはあったかも知れません。
しかし、それは、お互いに深く信頼しあい、
尊敬しあってこそのものではなかったでしょうか。

本当にただしいと思う道を進むためには
あれほど激しく法華経にこだわった賢治との激論は
嘉内にとっては避けては通れなかったのだと思います。

賢治はその後、嘉内に対して
真摯な気持ちで、なんとか「証明」しようと思ったのでしょうし
嘉内は嘉内で、何事にもひたむきに取り組み農民の中に飛び込んで
芸術と宗教と労働を融合させたいと願い、
みんなのほんとうの幸せを求めた賢治の姿に
励まされ、尊敬し、自らを奮いたたせたにちがいありません。

訣別した相手に、自分の作品『春と修羅』や『注文の多い料理店』などを送ったりするでしょうか。
その中にふたりにしかわからないようなキーワードを
盛り込んだりするでしょうか。
「来春は教師を辞めて、わたくし、本当の百姓になって働く」などと報告するような手紙を出すでしょうか。
農民は芸術と労働と宗教の中にあるべきだ、などという自分の考えを伝えたりするでしょうか。
たとえ激論があったからと言って
「訣別」した、などとは決していえないと、私は思っているのです。


「訣別」を説き、それを支持されてきたのは
歴代の名のある研究家の方々です。

しかし、疑問は疑問として、
「既成の説にとらわれず自由な見地から賢治の伝記や
作品を見直してもよいのではないか」
と提言された大明氏に心から敬意を表し賛同いたします。
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by signaless5 | 2009-11-04 09:25 | 嘉内

小沢氏が「訣別」説の根拠としたものは
大明氏が発表されているように

①書簡196の袋とじされて送られた激しい内容のものの存在
②嘉内の日記「国民日記」(宮沢賢治面会来の文字を斜め線で抹消)
③賢治作品「図書館幻想」「われはダルケと名乗れるものと」などによるもの

ですが、
①の書簡においては1995年、栗原敦氏の綿密な検証によって
その推定日が見直され、新校本全集では、
1921(大正10)年の7月下旬の位置から
大正7年の時期不明書簡として末位置へと移動されたのでした。

②と③については、大明氏によって
必ずしも二人の訣別を意味するものではなく
日記についてはまったく違う推測も充分成り立ち、
作品は作品として現実とは区別すべきであることが述べられ
しかも当人、つまり賢治・嘉内、それにその周辺の誰もが
決して「訣別」を語ったり書き残したりしたわけではなく
あくまで一部研究者の見解にすぎないこと、
その結果、「訣別」説は断言はできず、見直されるべきだと提言されましたが
私もまったく、そのとおりだと思います。

しかも、①の書簡の位置については
いまだにもとの大正10年のままで認識されていることが多い、というのが現状ではないでしょうか。
現に私自身、つい近年まで、その大移動の事実はまったく知りませんでした。
(私の知識がなんぼのものかというのはこのさい無視してください(^^;))

大正10年7月以降にも、たしかに二人の交流があった形跡があります。
保阪家には賢治から送られた「春と修羅」が現存していること、
「注文の多い料理店」や、鈴木東蔵氏の著書が家に在ったことを
嘉内の御子息が記憶されていること、
御長男が小学校に上がる前に「グスコーブドリの伝記」を読んでもらった記憶があること
嘉内の知人が、嘉内から度々賢治の話しを聞いていること
嘉内が青年たちに農民芸術家としての賢治について講義したこと・・・
などから、その後にも二人に交流があったことや
とうてい「訣別した」などとはいえない事実があると思います。

何より、嘉内は、書簡を貼ったスクラップブックと
賢治から送られた赤い経巻=「漢和対照妙法蓮華経」や「真宗聖典」を
いつも手元に置き大切にしていたのです。

もし「訣別」したとするならば、
私ならそんな相手の手紙など早々に処分してしまうだろうし、
その原因となった法華経の経巻など、
送り返すか、捨てるか、人にやってしまうだろうと思います。
最低でも、何処かにしまい込んで封印してしまうでしょう。

1925(大正14)年6月25日付封書を最後に書簡が残っていないことについては
“残っていない”だけであって
通信が途絶えたということにはならないはずです。
現に嘉内から賢治に宛てた書簡も、少なくとも73通ほどは
存在したはずですが、それは現在は一通も発見されてはいません。

もし、嘉内が賢治や他の二人からの書簡を整理して貼った緑のスクラップブックが
途中失われていたとしたら・・・・
二人の交流・友情も、誰にも知られることなく、
そんなものは存在しなかった、ということになってしまったはずです。
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by signaless5 | 2009-11-03 09:00 | 嘉内

『カムパネルラ』の記事のなかで、
賢治と嘉内の「訣別」については別の記事で書くつもり、と書きました。

ということで・・・そのことについて書きたいと思います。

1921(大正10)年7月18日、
宮沢賢治と保阪嘉内は、東京で会い
信仰に対する意見の違いから激しく対立し、訣別に至ったと言われています。

はたして本当にそうでしょうか。

そのことは、嘉内のことを詳しく知り、賢治との関係を見直すようになってから
私の中でも次第に大きくなっていった疑問でした。

そんななかで
今年の9月23日に花巻のイーハトーブ館で行われた
「宮沢賢治研究発表会」の大明敦氏の発表内容を知る機会に恵まれました。

それは「宮沢賢治・保阪嘉内の訣別をめぐって」というもので
『「訣別」はほんとうにあったのか、その説の根拠を検討すると
むしろ訣別はなかったと考える方が妥当ではないか』というものです。

長い賢治研究の歩みの中において
当初、賢治に保阪嘉内という友があったことはあまり知られていなかったようです。
1968(昭和43)年に「宮沢賢治 友への手紙」(保阪庸夫・小沢俊郎著)が出てから
保阪嘉内の存在がクローズアップされたように認識していますが
それと同時に、嘉内と賢治は「訣別」した、ということになったようです。

73通もの手紙を受けとった人物でありながら
これまで賢治に与えた影響や存在の重みが研究者の間でも深く追求されなかったのは
嘉内が賢治と「訣別」した相手だ、ということによるのではないでしょうか。

大明氏は、この訣別説を創ったのは小沢俊郎氏であり
その説を受けたのは恩田逸夫氏で
1980年頃から研究者の間でもそれが定説化されてしまった、
ということを詳しく検証されています。

訣別説を、深く追求することなく
大勢がそれを鵜呑みにしてしまったということは実に残念なことです。
1980年頃の主流のどの本を見ても
それに準じた見解で書かれていたように思います。
そして私自身も、ちょうどその頃に賢治ファンになり
当時はまだ純真な女子高生(?)だったということもあって
何の迷いもなく、本に書かれていることは正しいことだと
信じて疑いもしなかったというわけでした。

よって、長いあいだ、私も、賢治と嘉内は訣別したもの、と思いこみ
嘉内は賢治にとって、青春の一時期に親友であった人物ではあったが
それ以降は深い付き合いはなく、心の交流もなかった、ととらえていました。
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by signaless5 | 2009-11-02 22:07 | 嘉内

嘉内との出会い

私が嘉内と出会ったのは、実は、とても早い時期です。

賢治と出会ったのは、高校2年生の春頃。
嘉内との出会いも、ほぼそれと同じでした。

文庫本を何冊か買って賢治作品を読み始めたとき、
書店で見つけた一冊の本がどうしても欲しくなりました。
その時、持ち合わせのなかった私は
次の日におこづかいを握りしめて(?)買いに行った記憶があります。

それは保阪庸夫・小沢俊郎著「宮沢賢治 友への手紙」という本でした。
賢治と出会った年の、7月13日、夏休み前のことでした。

ごく最近になって、裏表紙に自分で書いた日付を見て、
こんなに早かったのかと我ながらとてもびっくりしたのです。
恐らく、私が買った作品以外の賢治本の、第一号でした。

この本は、ご存じの方も多いかと思いますが
賢治が嘉内に宛てた現存している73通の手紙を
詳しい解説とともに収録してあるものです。

手紙というものは、特定の人に宛てて書かれたものなので
仲のよい相手、気心の知れた相手であればなおさら
なにも包み隠さないストレートな表現だったり、
他の人には言えないようなことも書いたりします。
特にこれら賢治の嘉内宛の手紙は、
時にあまりに激しく、これでもかという程に、ありのままの自分をぶつけています。

それでも私は、それらを読みながら
嘉内を賢治にとっては「青春の日のかけがいのない親友だった」としか捕らえていませんでした。
あくまでも過去形で。

ところが、2007年秋。
山梨県立文学館で行われた「73通の手紙展」で受けた衝撃は
とても大きなものでした。
その時にも非常に感動しましたが
それ以上にあとからの余波の方が大きいような、
とんでもない不思議なものでした。

活字になったものを読むのと、
賢治の直筆の現物を見るのとは雲泥の差。
伝わってくるものがまったく違いました。

嘉内はありのままの賢治を、しっかりと受け止めていたのでしょう。
嘉内もまた、きっと、自身の悩みや迷いを赤裸々に綴ったことでしょう。
ふたつの魂が真っ向からぶつかり合う姿をそこに見ました。

私はそれまで長い間賢治を追いかけながら、
いったい何を見ていたのでしょう。
それまで漠然とわからなかったことや不思議だったことが
嘉内という人に光を当てることで、いっぺんに見えてきたのです。
嘉内が賢治に与えた影響の大きさに、やっと気付いたのです。

もちろん、ひとそれぞれ、感じ方や考え方もあると思いますが
私が長年、賢治を見つめてきた上で
ようやくたどりついたことです。
しかも、これは結論とかゴールではなく
ようやく『賢治』という人にたどり着いたスタート地点。
それまでは、まだ入り口にも立っていなかったような気がします。


賢治がいつもイメージしていた「ふたつがひとつになるもの」、
たとえば一本杉、例えば合流する川、やどりぎだってそうかもしれませんが
それらはみな、嘉内との交流を望んだ賢治の願いの現れのような気がします。


私が嘉内とほんとうに出会ってから、
賢治が抱いていたであろう、悩みや苦しみ、
そして深い深い悲しみ・・・。
それらのひとつひとつが、手に取るようにわかるようになった、
といってもいいかもしれません。

聖人、天才、救世主。
そんなものではなくただの人として、
賢治は嘉内と共に、初めて私の前に姿を現しました。
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by signaless5 | 2009-07-09 19:41 | 嘉内

苦しみのわけ

「今聞いたらあなたは学校を除名になったさうです。」

突然の賢治からの手紙で
春休みで帰省中の嘉内は、
自分が盛岡高等農林を除名になったことを知りました。

人生には無駄なことはひとつもない、
起こることはすべてただしい・・・

だとすれば
嘉内が除名になったことには
いったいどういう意味があるのでしょうか。

この件で、嘉内は、落ち込み悩み、苦しみ抜いたにちがいありません。
その後の人生にも大きく影響したことでしょう。
嘉内はそれでも、自分の進むべき道をさぐり
夢を追い続けました。

「除名」処分を、昔の一人の若者に起こったこと、と
読み過ごせば、それでもべつにいいのかもしれません。
しかし、私はそうではないと思ったのです。

処分の理由は当時も今も不明ですが
恐らく、当時の日本の国体、情勢と無関係ではないでしょう。

その後の日本がたどった道を考えたとき
私たちはこのことを疎かにしてはいけない、
あいまいにしてはいけないと思います。
言いたいこともいえない世の中になったとしたら、どうしますか。
きちんとした理由も告げられずに
罰せられるような国になったらどうしますか。

大人はもちろん
若い人達にこそ、きちんとそういうことを知って考えてもらいたい。


嘉内が死にたいと思うほど苦しんだ意義は、
そこにあるのではないか、と私は思います。
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by signaless5 | 2009-02-19 17:53 | 嘉内

今朝、洗濯物を干していたら
雲ひとつない青空を
一陣の風がどぉっと音を立てて通り過ぎていきました。

「今のは、きっと、嘉内さんだっただろうか・・・」

手を止めて、私は空の遠くを見上げていました。


昭和12年2月8日の朝、
周囲の者が号泣する中で
「何を泣いているんだ。人は皆、こうして自然に還ってゆくのだ。」
という言葉をのこして
保阪嘉内は40年の生涯を閉じました。

人の最期の言葉というのは
その人をまるで象徴しているかのようです。

賢治は、父に
「国訳妙法蓮華経を一千部つくって知己の方々にあげて下さい。」
と頼み、後は何も言うことはないかと聞かれ
「後はまた起きてから書きます。」
と答えたそうです。

一見対照的な言葉です。

肉体が滅び土に還り風に溶ける・・・・ということは
自然の一部になって
いつも私たちのまわりにあるということ。

亡くなったひとの魂は、それを想う人の中で永遠にともにあり続ける、と
私は思っています。

思えば、私に、嘉内と賢治の本当の姿が見えてきたのは
一年と少し前、「直筆の73通の手紙」を見てからでした。
それからずいぶん嘉内のことはわかったつもりでいましたが
実はまだほんの入り口に立ったにすぎないのだと
最近では感じています。

もし、ふたりが長生きしていたら
もっとたくさんの仕事をし
すてきな“物語”を描いてくれたことでしょう。

でも、いつの日か必ず、他の人の手を借りて、それを形にして現してくれる、
あるいはふたたび生まれ変わって
その続きを描いてくれる・・・・私はそんな気がしてなりません。

恐らく無限であろう時間と空間の中で、
ふたつの魂と出会えたことに
奇跡を感じ、私は心から感謝をしています。


今日はきっと嘉内さんは
故郷の山や野原を
風になって駆けめぐっているのではないでしょうか。
そして「ちょっと足をのばしてみるかな・・・」と
私の方の上空まで、遊びに来たかもしれません。
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by signaless5 | 2009-02-08 10:55 | 嘉内

馬鹿旅行

大正6年7月7日、「アザリア」のメンバーは第一回の会合を持ちました。
ほとんどのメンバーが出席したその会は大いに盛り上がり
閉会後も、興奮さめやらぬ一部のメンバー、すなわち
賢治、嘉内、河本義行、小菅健吉の4人は、
盛岡から雫石まで約20kmを夜通し歩き通すという
「馬鹿旅行」を敢行します。
賢治と嘉内、二十歳のときのことです。

賢治はその時の様子を「秋田街道」という作品に残しています。
嘉内は六十首に及ぶ短歌につづり、「馬鹿旅行」と名付けました。
健吉・義もそれぞれ作品に残しています。
4人の輝かしい青春の象徴のようなできごとではなかったでしょうか。

「馬鹿旅行」・・・

なんとなく、悪い意味ではないことはわかりますが
嘉内がなぜ「馬鹿」ということばをつけたのか。
初めて聞いたとき、すこしひっかかるものがありました。

この前、三神敬子さんの文章を読んでいたとき
山梨では「馬鹿」という言葉には、一般とは少し違う意味が込められている、
それで他県の人から誤解されることがある、
というようなことが書かれてありました。
なるほど、そうだったのか。
でも、いったい、どういう感じなんだろう・・・。

幸いなことに山梨に友達がいたので、さっそく聞いてみました。

「馬鹿」はたしかにいい言葉ではないかもしれないけど
あまり怒られているとか悪くいわれているイメージではないようです。
むしろ、愛情をもって言う、そんな感じでしょうか。
「馬鹿じゃん」と言われるとうれしい。
「でっかい馬鹿」と言われるともっとうれしい、という人も。

「でかい馬鹿」は初めて聞いたのでおもしろいな~と思いました。
なんとなく、わかってきました。
山梨でいうところの「馬鹿」のニュアンスが。

私も「でっかい馬鹿じゃ~ん」と言ってもらえるような人になりたいなって
思いましたもの・・・・。


嘉内は、とてもとても愛情をこめて
あの夜の無鉄砲歩きを「馬鹿旅行」と呼んだのですね。

きっとアザリアのほかの3人には、そのニュアンスはわかっていたことでしょう。

私にもそれが理解できて
ほんとにうれしいです!
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by signaless5 | 2008-11-13 09:39 | 嘉内