羅須地人協会跡の図

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羅須地人協会があったのは、現在「雨ニモマケズ詩碑」の建っている場所です。

この前、本棚を整理していてみつけたファイルの中に
この図面があり、とても懐かしくなりました。

これは、私がまだ高校生で
学校の図書室に通って
賢治関係の本を片っ端から読んでいた頃、
一冊の本の中にこの図面を見つけて
ノートに書き写し、清書したものです。

まだコピー機が普及していなかったので
そうするしかなかったということですが
我ながら健気と言うかマメというか・・・
当時はまだそうだったのですね。

まだ見ぬあこがれの場所。
賢治がひとりで生活をした家。

当時は花巻に行くことは夢のまた夢・・・。
せめてその間取りや位置を知り写しを手元に置くことで
想像の「羅須地人協会」に出入りし遊んだものでした。
ほんとうに何度も夢にまで出てきたほどです。

それから何年も経って、花巻に行き、
初めて実際に建物をこの眼で見て
そこに足を踏み入れたときの感動は今も忘れられません。
当時は2階にも上がることができ、
オルガンも弾くことができました。

賢治の想いがいっぱいつまった家。
その畳に座ってみて、
賢治がここで寝起きしたのかと思うと胸が震えたのです。

この図面は、詩碑の建っている場所と
羅須地人協会建物があったであろう位置が
重ねて描かれています。
賢治が植えたギンドロや
井戸や炊事場の位置も描かれているのがいいですね。

ただし東側の芝生花壇らしきものは現在ではもうありませんし
井戸の位置も以前と少し違うような気がします。

この図面が何の本に載っていたのかを
記録しておらず、わからないのが残念です。
原本はたしかモノクロで、私が適当に色も付けていたのだと
記憶していますが・・・。

なにぶん遠い昔の話です・・・
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by signaless5 | 2010-04-09 22:45 | 賢治

超立腹!

腹の立つことがふたつ。

私は普段あまり人に対して怒る方ではないと思うのですが・・・
(ホントかっ?)

どちらも国語の教師に関して。

先ず一つ目。
学校図書館に関わっている友人がいるのですが、
その人が教えてくれたある研究指導授業の時のこと。
教材は賢治の「注文の多い料理店」。
指導する先生は子供たちに
「さつき一ぺん紙くづのやうになつた二人の顔だけは、東京に帰つても、お湯にはいつても、もうもとのとほりになほ」らなかったのは、なぜか。
と問うたそうな。
そして、その「正解」として
大人は簡単には変われないから」とどうしても導きたかったらしい。
これでは生徒たちも指導される側の先生も
納得できるはずはない。
子供たちがそれぞれ違うことを感じても
それを「不正解」として切り捨てられる「国語」っていったい、
なんなんでしょうか。

そしてもう一つ、主人が小学生の時の話。
主人はその先生が大好きだったらしいが
授業で宮沢賢治をやることになった時のこと。
「やらなければいけないので、取り上げるが
俺は宮沢賢治は認めん。」
と言いながら教材を配ったと・・・。

お陰様で、主人は今でも
宮沢賢治は好きではない。

「国語」の授業っていったい
なんでしょうか。
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by signaless5 | 2010-02-15 09:33 | 賢治

<あなたと御目にかかる機会を得ませうかどうですか 若し御序でもあれば日時と場所とを御示し下さい。夜は困ります。母の前では一寸こみ入った事は話し兼ねます。

「この、母の前ではこみ入った話はしかねる、というのは
嘉内の方にも話したいことがあったのでは・・・」というSoraさんの話に
ああ、そうか!と思いそのころの書簡を見てみました。

書簡93(大正7年12月初め)の
保阪嘉内あて書簡の終わりにはこうあります。

<私もそちらへ参りたいのですがとても宅へ願ひ兼ねます。御出で下さるならば最ありがた存じます。>

“私も”とあることから、まず嘉内の方から先に
賢治と会いたい旨を伝えたことの返事に違いありません。
しかも、賢治は自分が行くことは無理なので
そちらに来てもらえるといいのだが、と書いています。
嘉内の要望がかなり強いことを示してはいないでしょうか。

その後2通の書簡の後、
12月31日付けの書簡102、妹の入院によって
上京したことが嘉内に伝えられます。
そして

<あなたと御目にかかる機会を得ませうかどうですか 若し御序でもあれば日時と場所とを御示し下さい。夜は困ります。母の前では一寸こみ入った事は話し兼ねます。>

となります。
「あなたと御目にかかる機会を得ませうかどうですか」というのは
そんなに言うなら、この機会にあなたと会うことにしましょうか、
というニュアンスに近いような気がするのは、私だけでしょうか。

つまりは、年末ころ、まずは嘉内のほうが賢治と会って話をしたがり
賢治が上京したのを好機に、二人で会うことにした、ということに
なりはしないでしょうか。
もちろん、賢治も嘉内に言いたいことはたくさんあったでしょう。
だからこそ、再会し、書簡102aにつながることになった、と私は思います。

何が言いたいのかというと
前の記事のコメント返信にも書いたように
やはり、嘉内が3月の予定があるなしにかかわらず
この時期に賢治と会うことを望んだのではないか、
そして二人はそれを実現したのだという気がして仕方がない、ということです(^^)
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by signaless5 | 2010-01-14 12:33 | 賢治

ホップ

先日、遠野産ホップ使用の限定ビール
「とれたてホップ 一番搾り」の記事を書きました。

その後、偶然にも、大内秀明氏の「賢治とモリスの環境芸術」という本に
賢治の羅須地人協会に出入りしていた
伊藤与蔵さんという方の聞き書きが載っていました。
与蔵さんが賢治と更木という北上川の川向かいの村に行ったときの話です。

<なんべんかこんな話をしながら歩いて来ると、道路のそばにある胡桃の木にからまって生えているつる草を指して、「あれがビールに味をつけるホップというものです」と教えてくれたりしました。そしてビールの作り方について説明されました。>

地図で見てみると更木というのは
今の北上市、羅須地人協会から南東に2Kmくらい下がったところのようです。
花巻近辺にも自然にホップが生えていたということでしょうか。

ホップには近づいただけでわかるような芳香があるんでしょうかね。
あ~、また飲みたくなってきた、
「とれたてホップ」!

それほどビール好きでもなかったんですが
これからはビールを飲むたびに
賢治の顔が浮かんでしまうかもしれません。
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by signaless5 | 2010-01-09 09:40 | 賢治

賢治の感情がなぜ、「冬のやうな工合」になってしまったのか。

嘉内にかなり厳しいことを言われたのでは、と書きましたが
やはりかなりのことだったのだと思います。

それはsoraさんもコメントをくださったように
国柱会に入る入らないとかいう次元のことではなく
賢治の今後の生き方、考え方に大きく関わることだったのだと思います。

その頃の賢治は、といえば・・・。
せっかく高等農林を出たのに、少しもそれを活かせず
嫌悪する家業を手伝わざるを得ない状況でした。
望みの職業につくこともできず
他のかつての親友たちのように兵役にさえつけず
肋膜炎や心臓が悪いと診断され自分の命もあと15年もつかどうかもわからない不安を抱き
暗い店先で古着に囲まれて貧しい農民を相手に
商売をしなくてはならない生活。
その頃の嘉内あての手紙を読むと
もう半分はノイローゼのような状態です。
誰にも言えない思いのうちをはき出せる相手、すなわち嘉内がいなかったとしたら
賢治はほんとうにどうなっていたことでしょうか。

そしてついには、どうにもぎりぎりの所に来てしまい
とうとう、着の身着のまま、家を出て
東京行きの汽車に飛び乗ってしまいました。
1月23日のことでした。

それまでの間、二人は
将来について、
宗教、願いや理想、自分たちのなすべきこと、
進むべき道について、
書簡のやり取りなどで話し合ってきました。
二人が東京でなにかをしようとしていた様子もうかがえます。
目指しているところは同じでした。

ただ、賢治は、どちらかといえば
理想ばかりで、実生活が追いついていないということがあったのではないでしょうか。
親を説得もできず、家出という形。
なにか具体的な設計図があるわけでもなく
ただ法華経への熱意と強い信仰心があるだけで
しかもなぜか唐突に国柱会に入ってしまい、嘉内にもそれを切望する。

嘉内は嘉内で、自分の道を模索していましたが
嘉内が「自分も東京へ出る」といえば、それを止める賢治がいる。
嘉内は非常に戸惑ったに違いありません。

再会した二人に
激しい口論があったことは可能性としては充分あります。
(あれだけの激しい勧誘を拒否するには
ちょっとやそっとの「お断り」では無理のような気もします)

宗教のことだけでなく
嘉内が悩んでいたらしい事柄についても
賢治があれこれ言ったかもしれません。


じゃあ、君のしていることは何?
いったい何をしようとしているのだ。
俺は国柱会には入らない。
法華経だけがそれ程素晴らしいというなら
それを誰にもわかるように証明してみせてくれ。
説得もできずに親を捨て、兄弟を捨て、
それでもやろうとしていることは何?
それが本当にただしい道なのか。
世界を幸せにすると言っても、君はそのために何をしているのだ。
いつまでもそんな生活が続くわけはない。
どんな具体案があるのだ。
どんな計画をたてているんだ。
俺を心底納得させてくれ。
人のことを言う前に、もっと自分のことを見てみろ。
今の君に、いったい何が出来るんだ。

(な~んて感じでしょうか。
自分で書いていて、きついよな~と思ってしまいましたが・・・。)

でも、きっと、こんな風なことを突きつけられたに違いありません。
なぜなら、この時を境に
賢治は変わったからです。

家に帰ることを考えはじめ
妹の病気という理由(?)を得て帰花してからは、
親が世話をしてくれた農学校の教師という職につきます。

「冬のスケッチ」を経て
「心象スケッチ」なるものつまりは詩を書き始めますが
それら作品の底に流れているのは
友から離れ、ほんとうの道を模索し、
一人歩き続けなければならない賢治の淋しさではないでしょうか。

ただ、友から離れたといっても
それは全くの訣別ではなく
ふたたび真実の頂の上で出会うために、
それぞれの場所から道を求めて歩き続けるのだ、といった
いわば、嘉内を求める旅。
賢治は、真実を証明してみせることが再び嘉内に出会うことだと
そんなふうに、思っていたのではないかと私は感じます。

『春と修羅』にはときどき「証明」という言葉や、そういうニュアンスのことばがでてきます。
賢治が「正しいこと」を証明してみせたかったのは
嘉内に対してではなかったでしょうか。

でなければ、たとえばトシさんは賢治の最愛の理解者でしたが
彼女にはなにも証明しなけらばならないことはないのです。
なにも言わなくてもお互いにわかりあえたからです。
自分の主張に、素直にうなずいてくれたからです。
トシの死によって、大変な喪失感はあったでしょう。
けなげな妹は、いったいどこに行ってしまったのか。
俺の進もうとしている道が、間違いとわかるなら、
はっきりそこから教えて欲しい・・・。

賢治がほんとうに迷いがなかったのなら
そんなことを死んだ妹に尋ねるでしょうか。
なぜ迷いがあったのか。
それは嘉内に鋭く突かれた、その言葉がいつまでも響いていたからでしょう。
嘉内に対する答えが、はっきり見つからないからでしょう。

賢治と嘉内は決して「訣別」したわけではなく
手紙や、本や資料のやりとりを
その後もずっと続けていたようです。
嘉内のもとに、その後に賢治から送られたものが多数あったそうですし
嘉内は、自分が講師を務めた場所で
農村青年たちに賢治についての講義をしているからです。

嘉内が帰農してほどなく
賢治も学校を辞める決意をします。
嘉内への報告の手紙(1925年6月25日)に
「来春はわたくしも教師をやめて本統の百姓になって働きます」とあります。
「わたくしは」でなく「わたくしも」とある、そのたった一字のちがいに
私は大きな意味を感じます。
あれほど楽しく、性分にあった農学校の教師という職を捨ててまで
農民の中に飛び込んでいった理由とは
やはり、お互いのほんとうに信ずる道を進んでいくべきだという
賢治の決意、嘉内への賢治なりの、答えのうちのひとつ
あるいはこの時点での経過報告のようなものではないでしょうか。

そして、その後に賢治が歩んだ道は
ご存じのように「みんなのほんとうの幸い」を求めるものでした。
そしてそれは
かつて賢治と嘉内、ふたりきりで岩手山に登った時に
お互いに堅く誓った道ではなかったでしょうか。

これまで「訣別」といわれてきたことは
決して「訣別」などではありません。
そのときの賢治にとっては
非常にショックで痛いことだったかもしれませんが
あの「激論」がなければ、その後の「賢治」はなかったかもしれません。
遠くで嘉内はいつも賢治のことを見ていたはずです。

賢治がはたしてどこまで自覚していたかはわかりませんが
嘉内は賢治にとって永遠に、究極の友情をもった相手だったのではなかったでしょうか。

たしか、大島に伊藤兄妹を訪ねたときだったでしょうか、
山梨まで脚を伸ばすつもりでいて
急に気が変わってそのまま帰ってきてしまいます。
その理由はわかりませんが
賢治がまだ嘉内に会うのは早い、
自分はそこまでに至ってはいないと考え躊躇したのだとしたら・・・

なんだか切なくなってしまいます・・・。
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by signaless5 | 2009-10-22 18:03 | 賢治

冬のやうな工合

大正10年8月11日関徳弥あて書簡には
賢治が肉食をして脚気になってしまったことが書かれています。

七月の始め頃から二十五日頃へかけて一寸肉食をしたのです。それは第一は私の感情があまり冬のやうな工合になってしまって燃えるやうな生理的の衝動なんか感じないやうに思はれたので、こんな事では一人の心をも理解し兼ねると思って断然幾片かの豚の脂、塩鱈の干物などを食べた為にそれをきっかけにして脚が悪くなったのでした。然るに肉食をしたって別段感情が変わるわけでもありません。今はすっかり逆戻りをしました。」

賢治はこの時家出をして東京にいました。
7月の始めに、賢治に何があったでしょうか。

一般に賢治と保阪嘉内が久々に会って激論となったのは
嘉内の日記から
この年の7月18日ということになっています。
しかし、私は、二人が会ったのはもうちょっと早かったのではないかと思っています。

嘉内が上京し、入営したのは7月1日です。
賢治はさっそく3日付けで「私もお目にかかりたい」との葉書を出しました。
「私も」とあるところを見るとその前の書簡で
嘉内のほうから、「上京したら会いたい」とでもあったのでしょう。
賢治のこの葉書には、よろこびを隠しきれないようなものを感じます。

そしてその次に新校本全集にあるのは7月13日、関徳弥あて封書。
なぜかこの文面の調子は一転しています。
「・・・私の立場はもっと悲しいのです。」
「今日の手紙は調子が変でせう。
斯う云ふ調子ですよ。近頃の私は。」

賢治は嘉内に会いたくて仕方がなかったと思います。
やっと、直接会って、話ができる、
もう一押しで嘉内も国柱会に入ってくれるはずだ・・・。
そういう意気込みだったのではないでしょうか。
そんな賢治が、3週間近くもだまってまっているとは思えません。

これらのことから
やっぱり賢治と嘉内が会ったのは
嘉内が上京してからほどなく、遅くても10日くらいまでの間ではないでしょうか。
それなら「七月の始め頃から二十五日頃へかけて」のつじつまも合います。

恐らく、賢治と会った嘉内は
それまで執拗にくり返し国柱会入会をせまっていた賢治に対し
かなり厳しいことを言ったに違いありません。

嘉内は決していい加減に賢治を突っぱねたわけではなく
様々な角度から誘いかける賢治の言葉に心を動かされながらも
やっぱりどうしても納得できかねるところがあり
自分を誤魔化すことができなかったのではないでしょうか。
親友に同調するのは一見友情を守るように見えますが
違うと思うことは違う、とはっきりいうことこそほんとうだと、
そう考えたのではないでしょうか。
そして嘉内は、激論の末、賢治の弱点を突いてしまったのでしょう。

賢治の心が一瞬で冬のようになってしまった、
その時の場面が目に見えるようです。

嘉内の日記の、7月18日に「宮沢賢治面会来」とありバッテンがしてある、
その意味はよく解りませんが
その日にもまた二人が会ったのかどうか・・・。
来るはずが来なかったのか。
来たが会えなかったのか。
会ったけど、更にお互い傷を広げてしまったのか。

まぁ、その「激論」があったこと自体も
当人達がどこにもその事について具体的に書き残したものがないので
想像の域を超えませんが
賢治の「冬のやうな工合」になったことを考えると
その可能性は大きいような気がします。

『宮沢賢治の青春』(宝島社)で菅原千恵子さんは
13日の関徳弥あて書簡については
再会を前にして賢治の心が揺れているのは
その前に嘉内から「賢治にとって人生の目的、その望みや願いとは具体的にどんなことなのかを
再会を前に問うてきたのではなかったか。」と述べています。

しかし、それまでさんざん、法華経あるいは国柱会について
説いてきた賢治が、手紙による問いかけくらいで
それほど動揺するでしょうか。
それならば、これまで長い間そのことについてやりとりしてきた中でも
とうに、そうなっていてもおかしくはないはずです。
なにも、東京で、しかも会う直前ではなくても。

「私の立場はもっと悲しい」
「信仰は一向動揺しません」
といいながら、何の動揺かは聞かないでくれという。
それは、もし言ってしまえば、これまで自分が徳弥に言ってきたことまでも
信用のなくなるようなことだったからではありませんか。
自分の望みや願いがわからなくなってしまうほどのこととは
単に、はっきり教えてくれ、といったようなことではなく
根本を、完全否定とはいえないまでも、大きく揺るがされるようなかなり強いものを
突きつけられてのことだと思います。

そういうことからも
やっぱり、手紙での問いかけではなく
早々に、直接に会ったのではないかと、私は思います。


賢治は、最後に「この紙の裏はこわしてしまった芝居です。」
と結んでいます。
その手紙の裏には「蒼冷と純黒」が書かれてありました。

それは賢治と嘉内の分身のような戯曲の一部です。
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by signaless5 | 2009-10-21 18:49 | 賢治

賢治と南吉

昨日は私が所属している読書会の例会でした。
本を中心に、時には句をつくってみたり小旅行にいったりという
自由な活動をしていますが
細く長く・・・の会なので、
毎回集まるメンバーも数人の
こじんまりかつのんびりした会です。

さて、今月は「宮沢賢治」でした。
賢治のことなると、つい、熱が入ってしまう私ですが
何事においても知識があるからといって
必ずしもいいというわけではありませんね。

私などよりずっと様々な分野やたくさんの作家の作品に通じているメンバーが
面白いことをいいました。

賢治になぜ惹かれるのか、なぜ、こんなに広く求められるのか
ということについて、

 賢治は「肯定」の文学で、自分というものを受け入れる、
 ということが根底にある。
 賢治の作品を、必ずしも充分理解し追いつかなくても
 向こうから手をさしのべてくれる。救われ、癒やされる。

 対照的に新美南吉の作品は、「否定」であり
 最後には死や破壊となり、自己を否定した文学で、
 (例えばごんぎつねの死、おじいさんのランプの破壊)
 叙情的ではあっても、救いがない。悲しくなる。

というのです。
一概に決めつけることは出来ませんが
なるほど、そういう見方も面白いかもしれない・・・と思いました。

確かに「よだかのほし」や「グスコーブドリの伝記」も最後には死を迎えますが
みんなの幸いを願ったその先には「救い」が待っています。


こんな記事を書くと、南吉ファンに怒られそうですが・・・。
でも、私は新美南吉も好きですよ。
そこには優しさとか思いやりも描かれているのですから。

もうちょっとその二人の違いについて
追求してみるのも面白そうです。
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by signaless5 | 2009-10-19 09:24 | 賢治

今年の賢治祭は・・・

賢治ファンなのに賢治祭について触れなかったのはなぜか。

私がいつも拝見させて戴いている
賢治関係のサイトの方々もことごとく花巻入りで
イギリス海岸の泥岩がちょっと見えたとか
賢治祭は楽しかったとか
「銀河鉄道の夜」にちなんだ料理だとか
研究発表は素晴らしかったとか・・・(?)

せっかくのシルバーウィークに
ほとんど仕事だった私とは大違い。

報告の記事を見るたびに
「そんなに人がたくさんいるイギリス海岸なんて行くもんか~」とか
「下根子桜の詩碑跡にはひっそりと行った方がいいに決まってる」とか
「そんなのお腹に入ればみんなおんなじだい」とか
「あとで誰かに聞くからいいもん」とか・・・。

これはおそらく
日頃のおこないのちがいでせうね。

先週はパソコンの前でひとりいじけていた一週間でした。
ちくしょー(T_T)
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by signaless5 | 2009-09-28 13:00 | 賢治

宗教と科学の融合、
賢治はそれだけでなく
「芸術」もそこに加えるべきだと考えていたのでしょう。

「万物を司る大きな存在」を感じることが宗教とすると
それを証明することが科学、
その感動を表現し伝えるのが芸術といえるでしょうか。

賢治はそのどれもを索めた・・・。

美しい賢治の作品に感化・共鳴して
私たちもまた自身で体感していく。


小十郎がすぐ下に湧水のあったのを思ひ出して少し山を降りかけたら愕いたことは母親とやっと一歳になるかならないやうな子熊と二疋丁度人が額に手をあてゝ遠くを眺めるといった風に淡い六日の月光の中を向ふの谷をしげしげ見つめてゐるのにあった。小十郎はまるでその二疋の熊のからだから後光が射すやうに思へて釘付けになったやうに立ちどまってそっちを見つめてゐた。すると小熊が甘へるやうに云ったのだ。「どうしても雪だよ、おっかさん谷のこっち側だけ白くなってゐるんだもの。どうしても雪だよ。おっかさん」すると母親の熊はまだしげしげ見つめてゐたがやっと云った。「雪でないよ、あすこへだけ降る筈がないんだもの。」小熊はまた云った。「だから溶けないで残ったのでせう。」「いゝえ、おっかさんはあざみの芽を見に昨日あすこを通ったばかりです。」小十郎もぢっとそっちを見た。
月の光が青じろく山の斜面を滑ってゐた。そこが丁度銀の鎧のやうに光ってゐるのだった。しばらくたって小熊が云った。「雪でなけぁ霜だねぇ。きっとさうだ。」ほんたうに今夜は霜が降るぞ、お月さまの近くで胃(コキエ)もあんなに青くふるえてゐるし第一お月さまのいろだってまるで氷のやうだ 小十郎がひとりで思った「おかあさまはわかったよ、あれねえ、ひきざくらの花」「なぁんだ、ひきざくらの花だい。僕知ってるよ。」「いゝえ、、お前はまだ見たことがありません。」「知ってるよ、僕この前とって来たもの。」「いゝえ あれひきざくらでありません、お前とって来たのきさゝげの花でせう。」「さうだろうか。」小熊はとぼけたやうに答へました。小十郎はなぜかもう胸がいっぱいになってもう一ぺん向ふの谷の白い雪のやうな花と余念なく月光をあびて立ってゐる母子の熊をちらっと見てそれから音をたてないやうにこっそりこっそり戻りはじめた。風があっちへ行くな行くなと思ひながらそろそろと小十郎は後退りした。くろもぢの木の匂ひが月のあかりといっしょにすっとさした。
          (「なめとこ山の熊」新校本宮沢賢治全集第10巻より抜粋)


賢治もおそらくこいつかどこかで
このような光景をみたことがあったのでしょうか。
これを読むたび、私も小十郎といっしょになって
春の山で胸をいっぱいにして、
こっそりこっそり後退りしているような気になるのです。

輝かしい命への慈しみ、畏敬、喜び。
ひと言で言えば「光」を見たのかもしれません。
その光とは、「いみじい生物の名前」なのでしょう。

同じ場面に出くわして
「うわっ、熊だ、逃げろ」と思うか
ふたつの尊い“命”を見て涙を流すか・・・。

そこが賢治と私の違いかもしれませんが
「こんなに美しいものをみたよ」と賢治が語りかけてくれているのを
すこしでも受けとることができるように
これからも耳を澄ませていきたいと思うのです。
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by signaless5 | 2009-09-24 20:55 | 賢治

レイチェルと賢治

私がレイチェル・カーソンの「センス・オブ・ワンダー」を読んだのは
もう10年以上前になります。
その時にもレイチェルは賢治と非常に似たものを持った人だと感じましたが
ある賢治の会の会報誌に載っていた
今井美和さんの文章「センス・オブ・ワンダーをとおして」を読み、
そのときの感動が蘇ってきました。

この「センス・オブ・ワンダー」という言葉の意味を説明するのは
非常に難しいことですが、
『神秘さや不思議さに目を見張る感性』」ということでしょうか。
しかし、今回今井さんの文章を読み
もっと深い意味では
その感性で自然やあらゆるものを見つめた、
その先にあるものを感じ、知ること・・・という思いを強くしました。


恥を承知で私の稚拙なことばでいうならば
自分が在ることの奇跡と、
その自分が存在するこの宇宙があることの奇跡を感じること。
それは、人間を超えた大きな力であり
釈迦が「南無妙法蓮華経」と説き、キリストが神と呼んだものであり、
賢治のいう「万象同帰のそのいみじい生物の名」ではないのでしょうか。

レイチェルは、干潟で一個の巻き貝を見つたとき
かつてそこに一世紀前にいたフラミンゴの群れを見ることができましたが
賢治は、地層やひとかけらの岩石から
何億年も前の、大きなシダが生え爬虫類の徘徊する時代へと飛ぶことができました。

一滴の葉の上の露に永遠の生命を見いだす。
スギナの胞子の行方を追ったその目で宇宙の果ての広がりを見る。

月へ降り立った宇宙飛行士が
「地球に生まれたこと、それだけで奇跡だ」といったそうですが
賢治は地上に居ながらにしてそれを知っていた・・・。

私はそれは、決して特別な能力だとは思いません。
科学の意味と意義は
きっと、そこにあるのではないでしょうか。



今井さんの書かれたものを読み
私は、いままでなんとなくわかってはいたけれど
ぼんやりとしていたものにすっとピントが合い
すべてがはっきりとした、そんな感じがしたのです。
賢治が何をいいたかったのか、
何を目指していたのか、
何を索めていたのか・・・。
心象スケッチや童話で描きたかったこと。
法華経や実践を通じて人々に与えたかったこと。
サイエンチストとして証明したかったこと。
それらはおそらくすべて同じことであり、
たったひとつのことなのだということ、
すべてのことが繋がった、そんな気がしたのです。
そして、つまりは私自身が進むべき道も。

私はこれまで、なぜ自分がこれほど賢治に惹かれるのか、
なぜ離れられないのか、
わかったようでいてもはっきり説明ができませんでした。

今ならそれがわかったような気がするのです。
「まこと」を索める賢治は、すなわち「まこと」なのではないでしょうか。
「まこと」であるからこそ、難しいことはわからなくても
詩や童話を読めば、私たちの魂の奥深くに響いてくるのではないでしょうか。

私は、私が賢治を想うとき、賢治とひとつにあることを感じます。
自然の中で風を感じるときにも賢治を感じ、
私の中に賢治があることを感じます。
以前は、自分はおかしいのだろうかとも思ったりしました。
でも、そうではないのかもしれません。

「私たちは昔からのきょうだい」なのだという。
「世界全体が幸福にならなければ」いけないのだという。
なぜならみんなひとつの世界。
みんなが繋がっている世界。
私が息を吸う。その空気は、この世界の物質。私の中で燃焼する。私の身体もこの世界の物質。私が食べる。食べたものが私の身体になる。私の身体は、また違う物質に変化する。
すべてのものが連鎖する世界。

物質的にも繋がっているが、精神も繋がっているかもしれない。
賢治の精神は残っている。
どこかに漂い、誰かの中に入ったりもする・・・。

宗教と科学は相対するものではなく
同じ方向に向かって融合するもののはずです。
宗教も科学も万物のためにならなくてはなりません。

私たちが目指すべきもの、
護るべきもの、
それは自身の魂の声にちゃんと耳を傾ければ
わかることなのかもしれません。

 
・・・追記 

先日、図書館で「センス・オブ・ワンダー」を借りてきたので
この記事を読み直していたところ
表現に誤解をまねくようなところを発見しましたので一部書き直しました。
アップしてからだいぶ時間が経ってしまったので
大変ご迷惑をおかけしたかもしれません。
申し訳ありませんでした。(2009.10.14)
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by signaless5 | 2009-09-21 23:59 | 賢治