『絶後の記録ー広島原子爆弾の手記ー』小倉豊文著(中央公論新社)

広島に原爆が落とされた日の朝、
著者は、郊外の路上を広島に向かって歩いていた。
そして向こうの空がピカッと光ってから巨大な雲の山と
紅蓮の焔の大火柱を見る。
化け物のようなキノコ雲がグングン湧き上がる。
その時著者の妻は市街にいた。

間もなく放射能の影響で亡くなった妻への
手紙という形で綴られる本書。
著者が街に向かって歩くそのままの順で事実が淡々と書かれている。
ゆえに非常なリアリティをもって迫ってくる。
次第に増えていく被害者の数。
そして中心部に行くに従って
この世のこととは思えないような
阿鼻叫喚の地獄絵図となっていく…。


小倉豊文さんは、宮沢賢治研究の世界では有名な方であり
私もいくつかの文章を目にしてはいましたが
氏にこのような壮絶な体験があったことを
この本を読むまで、私は知りませんでした。

そのことを非常に恥じると共に
もっと広く、現代の人々にも読んでもらいたいと思います。

原爆の恐ろしさを伝える優れた本であると共に
日本人がいかにして「戦争」というものに同調し、
また「同調」させられてきたかもわかります。

原爆を落としたアメリカへの非難攻撃的な記述をしていないことに対して
小倉氏は「あとがき」にその心情を書かれていますが
疑問や不満を感じながらも面従してきた自分自身にたいする自己嫌悪と
罪の意識からだということでしょうか。
戦争の責任は支配階級だけでなく、
それに従うほかなかった国民全員の責任でもあるということだと
氏は考えていたのではないでしょうか。

私は最近坂本龍馬関係の本を読んでいて
軍国主義になっていった経緯は
維新前の尊皇攘夷派の流れだというようなことを知ったのですが
つまりはある意味、日本人の中に
そのような根強い気質のようなものがあったのだということであり、
良い悪いは別にして、どうにも避けられないものだったのかも知れないと
思うようになりました。

涼しい顔をして「戦争反対」を高らかに唱える私たちも
もし当時に生きていたら、果たしてどうなっていたかはわかりません。
過去の人々を非難することは簡単だけど
マスコミに踊らされ
政治家の口八丁手八丁に右往左往している現代の有様を見ると
とても確かな偉そうなことは言えないと思う。
それを充分理解しなければ
そして、戦争の悲惨さをしっかりと伝えていかなければ
また同じことを繰り返すのではないか…。
もちろん、私も含めて。
そう思うのです。

今年ももうすぐ8月が来るけれど
戦争や原爆のことをしっかりと取り上げるTVが
果たしてどれくらいあるでしょうか。

賢治が、昭和8年に亡くならず
あれからも生きていたらどうしていたか、という説を時々みかけますが 
今回小倉氏の考え・想いを知って
賢治に限ってそんなことはあるまい、と考えていた、
というか、そう思いたがっていた自分の認識の浅はかさを思い知りました。
それこそ、賢治を聖人化する以外の何でもないことだということも。
同時に、自分自身も、いざとなったらどうなるか、
ということすら確かではないということです。


罪もない人々が、
なぜあのような犠牲を払わなければならなかったのか。

「悪いことをすると地獄に堕ちるよ」とは昔からよく言われたものですが
あの人達はそれほど悪いことをしたわけでは、決してないはずなのに。
私はこれまで、凶悪な事件や悲惨な事故に遭ってしまう善良な人々のことを、
どう考えていいのかわかりませんでしたが
この本を読みながら思ったのは
彼等は、私たち全員の「罪」を背負ったのだ、ということでした。
キリスト教において「神は私たちの罪を背負われて磔になった」と言われるのと同じだと。

地球上に住む人類全員の罪を
あの人達は背負って亡くなったのだとそう思えば、
どれほど私たちはそれを自覚しなければいけないことか。
彼等の犠牲の上に
今の私たちの繁栄があることを
折に触れ、私たちは自覚しなければならないはずです。
私たちは決して彼等の犠牲を無駄にしてはいけないのだと思います。
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by signaless5 | 2010-07-01 21:25 |