とらよとすれば・・・

賢治の「習作」という詩にある

 とらよとすればその手からことりはそらへとんで行く


このフレーズは、保阪嘉内の作った「勿忘草の歌」にもあることから
私はこれが二人の間で特別なモチーフだったのではないかと考えました。

これは1919年(大正8年)に上演された
芸術座の「カルメン」で歌われる「恋の鳥」(作詞・北原白秋/作曲中山晋平)が
下敷きとなっているようです。

 捕へて見ればその手から
 小鳥は空へ飛んでゆく

 泣いても泣いても泣ききれぬ
 可愛いい可愛い恋の鳥

この3番の歌詞は

 捕らよとすれば飛んで行き
 逃げよとすれば飛びすがり
 好いた惚れたと追つかける
 翼火の鳥恋の鳥

となっていて、最初私は
賢治か嘉内のどちらかが
間違って覚えてしまい
それを他方に伝えたため
ふたりでそのまま覚えてしまっているのかも・・・と思いました。

しかし、この歌は当時流行し、
あちこちで歌われたり聴かれたりしたようですから
どうもそうではないような気がします。
特に歌舞伎や演劇が好きな嘉内が、いつまでも間違えたままである
ということは考えにくいのではないでしょうか。

つまりどちらかがあえて
「恋の鳥」とは違うフレーズを書いた可能性もあるはずです。


賢治と嘉内が「カルメン」を見たか(→)ということについては
hamagakiさん(→)が詳しく検証してくださっています。

賢治が見た可能性はあっても
嘉内が見た可能性は低いと考えて良いかもしれません。

私は先の記事で大正8年の初め頃に
賢治と嘉内は東京で会ったのではないかと書きましたが
賢治がすでにこのとき「カルメン」を見た後であれば
嘉内にその話をした可能性は大きいと思います。

大正10年7月まで会わなかったとしても
なにかのきっかけで「そういえば2年前にカルメンを見たよ」という話になっても
おかしくはありません。
たとえその後に深刻な話があるとしても
会っていきなり本題に入るひとはあまりいないように思います。

ただ、その時には歌の歌詞のことまで話したかどうかといえば
よほどでないと細かなことまでは話さないであろうし
先にも書いたように、
賢治が間違った歌詞を教えて
嘉内もずっとそのままにしておく、というのも無いような気がします。

とすれば、
嘉内に「カルメン」のことを話す話さないにかかわらず
賢治が歌詞を違えて覚えたか
時がたつにつれ賢治の中で歌詞が変わってしまったか、
ということなのかもしれません。

今ある事実は
賢治が「習作」に「とらよとすれば・・・」と書いた。
嘉内も全く同じフレーズを自作の歌に取り入れた・・・。

と、いうことは・・・・。

実は、私のブログにいつもコメントをくださるsoraさんが以前、
 <賢治の送った『春と修羅』を読んで
 嘉内があえてそのフレーズを
 そのまま尊重して取り入れ「勿忘草の歌」という作品にしたのではないか>
というようなことを私に話して下さったことがありました。

その時にはそのまま深く考えずにいてしまったのですが
このところ、賢治と嘉内が大正8年の初頭に東京で会った可能性や
書簡102a についてのことをあれこれ考えているうちに
私にもどうしてもその可能性が大きいように思えてきました。

つまり、やはりこれは二人だけの“言葉”なのではないでしょうか。

賢治は「習作」を書いたときには
確かに大正8年の初め頃のことを思い出していたかもしれません。

嘉内も「習作」を読んでその頃のことを思い出した・・・。

ほろ苦かったか
甘酸っぱかったか・・・。
どっちにしても、これは深い友情がなければ
あり得ないことではないでしょうか。
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by signaless5 | 2009-12-30 23:24 |