移転します

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ご迷惑をお掛けします。

このブログは残しますので
新旧共々、今後ともよろしくお願いします

新しいブログも「りんご通信」です。
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# by signaless5 | 2010-07-15 18:43 | 思うこと

広島に原爆が落とされた日の朝、
著者は、郊外の路上を広島に向かって歩いていた。
そして向こうの空がピカッと光ってから巨大な雲の山と
紅蓮の焔の大火柱を見る。
化け物のようなキノコ雲がグングン湧き上がる。
その時著者の妻は市街にいた。

間もなく放射能の影響で亡くなった妻への
手紙という形で綴られる本書。
著者が街に向かって歩くそのままの順で事実が淡々と書かれている。
ゆえに非常なリアリティをもって迫ってくる。
次第に増えていく被害者の数。
そして中心部に行くに従って
この世のこととは思えないような
阿鼻叫喚の地獄絵図となっていく…。


小倉豊文さんは、宮沢賢治研究の世界では有名な方であり
私もいくつかの文章を目にしてはいましたが
氏にこのような壮絶な体験があったことを
この本を読むまで、私は知りませんでした。

そのことを非常に恥じると共に
もっと広く、現代の人々にも読んでもらいたいと思います。

原爆の恐ろしさを伝える優れた本であると共に
日本人がいかにして「戦争」というものに同調し、
また「同調」させられてきたかもわかります。

原爆を落としたアメリカへの非難攻撃的な記述をしていないことに対して
小倉氏は「あとがき」にその心情を書かれていますが
疑問や不満を感じながらも面従してきた自分自身にたいする自己嫌悪と
罪の意識からだということでしょうか。
戦争の責任は支配階級だけでなく、
それに従うほかなかった国民全員の責任でもあるということだと
氏は考えていたのではないでしょうか。

私は最近坂本龍馬関係の本を読んでいて
軍国主義になっていった経緯は
維新前の尊皇攘夷派の流れだというようなことを知ったのですが
つまりはある意味、日本人の中に
そのような根強い気質のようなものがあったのだということであり、
良い悪いは別にして、どうにも避けられないものだったのかも知れないと
思うようになりました。

涼しい顔をして「戦争反対」を高らかに唱える私たちも
もし当時に生きていたら、果たしてどうなっていたかはわかりません。
過去の人々を非難することは簡単だけど
マスコミに踊らされ
政治家の口八丁手八丁に右往左往している現代の有様を見ると
とても確かな偉そうなことは言えないと思う。
それを充分理解しなければ
そして、戦争の悲惨さをしっかりと伝えていかなければ
また同じことを繰り返すのではないか…。
もちろん、私も含めて。
そう思うのです。

今年ももうすぐ8月が来るけれど
戦争や原爆のことをしっかりと取り上げるTVが
果たしてどれくらいあるでしょうか。

賢治が、昭和8年に亡くならず
あれからも生きていたらどうしていたか、という説を時々みかけますが 
今回小倉氏の考え・想いを知って
賢治に限ってそんなことはあるまい、と考えていた、
というか、そう思いたがっていた自分の認識の浅はかさを思い知りました。
それこそ、賢治を聖人化する以外の何でもないことだということも。
同時に、自分自身も、いざとなったらどうなるか、
ということすら確かではないということです。


罪もない人々が、
なぜあのような犠牲を払わなければならなかったのか。

「悪いことをすると地獄に堕ちるよ」とは昔からよく言われたものですが
あの人達はそれほど悪いことをしたわけでは、決してないはずなのに。
私はこれまで、凶悪な事件や悲惨な事故に遭ってしまう善良な人々のことを、
どう考えていいのかわかりませんでしたが
この本を読みながら思ったのは
彼等は、私たち全員の「罪」を背負ったのだ、ということでした。
キリスト教において「神は私たちの罪を背負われて磔になった」と言われるのと同じだと。

地球上に住む人類全員の罪を
あの人達は背負って亡くなったのだとそう思えば、
どれほど私たちはそれを自覚しなければいけないことか。
彼等の犠牲の上に
今の私たちの繁栄があることを
折に触れ、私たちは自覚しなければならないはずです。
私たちは決して彼等の犠牲を無駄にしてはいけないのだと思います。
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# by signaless5 | 2010-07-01 21:25 |

伊勢

先の記事にも書きましたが
せっかく津市に出かけたので
半泥子展鑑賞の後、友人と別れ
一人で伊勢に足を伸ばしてみました。
奇しくもこの日も丁度雨模様。

賢治達は参宮線「山田駅」(現在の伊勢市駅=昭和34年に改称)に降り立ちましたが、
私は、近鉄「宇治山田駅」で降りました。
時間があまりなかったので効率よく回るためです。

本当ならレンタサイクルで、
子供の頃に親しんだ場所をいろいろとまわるつもりだったのですが
雨では仕方なく、徒歩で行くことに…。

なじみのお店や
よく遊んだ公園や通った小学校、
通学路や昔住んでいた場所…
変わったところもあり、変わらないものもあり。
実家は何度か引っ越しをしたので
最近はこの辺りに来ることがなく、何十年かぶりでした。
なんだかタイムスリップしたような不思議な感覚。
子供の頃は広く感じていた道路も
こんなに狭かったのか、とびっくりしました。
公園でシロツメクサの花輪を作って遊んだことや
川で父とフナ釣りをしたことなどを思い出しました。

そのあと外宮に行ってみました。
勾玉池のまわりを、遊びがてらよく散歩したものですが
なんと、残念なことに遷宮に向けて整備のため工事中。
平成24年春までは、入れないようになっていました。
池の南の小道を奥に入っていくと山肌に横穴が開いていて
子供の頃その異様な雰囲気がとても怖かったのを覚えています。
防空壕かなにかだったのでしょうか。
その穴の存在も確かめたかったのですが叶わず
とても残念でした。
冬の日の寒い朝、父とここに霜柱を見に来たことも
思い出のひとつです。

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柵の隙間から覗いた勾玉池


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御木本道路からの外宮


その後は
帰りの電車の時間があったので急ぎ足で駅に戻りました。

賢治も訪れた「神宮徴古館」や
懐かしい古市界隈も行きたかったのですが、
やむなく次の機会に。

古市というのは外宮・内宮の中間に位置する丘陵地で
「間の山」と呼ばれ、昔は遊郭街であったところ。
賢治の愛読した中里介山の『大菩薩峠』にも出てきます。
日蓮上人のゆかりの常明寺もあり
建長5年(1253)境内の井戸で潔斎をし
「我、日本の柱にならん」、「我、日本の眼目とならん」、「我、日本の大船とならん」との三大誓願を皇大神宮に誓願した、と言われています。
常明寺は今はもうありませんが
「誓いの井戸」は残されています。

賢治が歩いたルートはどこか。
どこに寄って何を見たのか。
次の機会には、私なりに迫ってみたいと思っています。
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# by signaless5 | 2010-06-30 09:40 |

『「宮沢賢治」の誕生』大角修著(中央公論社)を読みました。

賢治の短歌と年譜、記録等をもとに
大正10年(1921)の賢治、
特に4月の父・政次郎との関西旅行を中心に
賢治にとっての「法華経」と、文学との関係に迫っています。
そしてこの時、私たちが知っている「宮沢賢治」が誕生したのだと。


確かにこの年を境に、
賢治は大きく変わったといえるでしょう。

芋虫はサナギになり、暗い店先で苦しんでいた。
東京に出たことが最後の仕上げとばかりに
蝶になって舞い戻ってきた…。
東京に家出をする前と、花巻に帰ってきてからは
それくらい違いがあるともいえると思います。

大角氏は、賢治の作品を「法華文学」としてしまうことに違和感を述べています。
<賢治の作品を法華経の経文や天台・日蓮教学に還元して解釈する作業は、作品の世界を分解して破壊してしまうことがないようにしんちょうでなければならない。>
たとえ賢治が自ら「法華文学」と記したのだとしても
それは賢治の心の覚えであって
表面に出されるべきものではないのだと。

全く同感、と頷きながら読みました。

賢治にとって、法華経やそのほかの宗派がどういうものであったか、
また、父と旅した比叡山や奈良における賢治の心情、
そして国柱会との関わりなど、
これまで靄がかかって見えなかった部分が
この本によって、払われ、よく見えてきた気がします。

しかし、大正10年7月頃にあったといわれている
保阪嘉内との激論については
全くといっていいほど触れられていません。
保阪嘉内との関係は、
賢治の生涯に多大な影響を与えていると思われ、
このことについて何も書かれていないのは
少し不思議な気もしますが
でも、それは置いておいても
この本から教わったことは非常に大きいです。

個人的にも興味深かったのは
私の故郷でもある「伊勢・二見」の旅について。
この伊勢参りが雨降りだったことは
短歌にうたわれている情景からわかりますが
これほどの悪天候だったとは!

大雨と強風の中、親子二人して
内宮の鳥居をくぐり玉砂利を踏んで白い石に額ずいた姿を想像し
心ふるえるような思いになりました。

さて、伊勢について詠まれた賢治の短歌をみると
「伊勢。」と題された8首。
「内宮」と題された3首。
「二見」の1首。
合計12首です。

これらの短歌と、この本に書かれている内容を見ると
ある疑問が浮上してきます。

それは、「賢治はこのとき外宮に行ったのか?」というものです。

本書P48の1~3行目にはこうあります。
伊勢神宮には外宮と内宮がある。外宮は産業の神である豊受大御神をまつる。山田駅から徒歩十分ほどの距離だ。境内の各所にある衛士見張所で門の名を聞いたりしながら五十鈴川の宇治橋に向かったのだろう。その橋を渡ると、皇祖天照大神をまつる内宮である。


一方、大正5年の修学旅行での伊勢神宮参拝は
『校友会々報』に賢治自身が記事を残しています。
<先ず外宮に参拝し自動車にて直ちに内宮に向ふ。>


大角氏の文章をもう一度見てみると、「山田駅から徒歩十分」なら外宮に違いありません。
しかし、境内の衛士見張所に寄りそれから五十鈴川の宇治橋を渡った、というと
これは内宮のことです。
まず外宮があって、その奥または隣に内宮があるかのように読めてしまいます。

外宮と内宮は距離にして5Km以上はあるでしょうか。
賢治の報告にあるように「自動車」で行く、
或いは徒歩にしてもかなり歩かなくてはいけません。


さらに賢治の短歌ですが
「伊勢。」とある8首がまるで外宮の描写のように
とらえられてしまうかも知れませんが
これらは恐らくすべて内宮の描写です。
五十鈴川というのは内宮の西側を通ってから北東に向かって伊勢湾に流れ込んでいます。
外宮は内宮の北西に位置し、五十鈴川は流れていません。

衛士見張所は外宮内宮どちらにもありますから
内宮といいきることはできませんが
少なくとも5首目以降は内宮のことです。
つまり、「伊勢。」とある8首、「内宮」とある3首はすべて
内宮の歌ともいえないことはありません。
なぜ、賢治は3首にのみ「内宮」としたのだろうか。
ちょっと不思議な気がします。
短歌での賢治にとって「内宮」は、正殿のことを意味するのでしょうか。


このような疑問も浮上しましたが
「あとがき」にもあるように
この本が生まれるきっかけは、宮沢賢治研究会の比叡山ツアーだったということです。
私もできれば参加したかったと心底思いました。

父と賢治の二人の旅。
それぞれの想いが交錯する。
比叡山の行程はかなりきついものだったらしい。
宿についたのは夜10時くらいとか。
それもまた旅の面白さのひとつかもしれません。
その時は疲れ果て、大変だったかもしれませんが
後々の語りぐさになったかもしれません。
それもなんだかある意味親子の絆のひとつになり得たのでしょうか。

伊勢から比叡山、奈良への旅。
一度この親子と同じルートをたどってみることができればいいなぁ。
そんな夢も生まれたのです。

このところ出会う、賢治関係の本は
どれも素晴らしいのですが
この本もまた、私にとても豊かなものを与えてくれた本でした。
何度も読めばさらに理解が深まると思います。

ちなみに、「比叡山セミナー」と下山ルートについては
この本にも参考サイトとして登場する
『宮沢賢治の詩の世界』に詳しく報告されています。
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# by signaless5 | 2010-06-25 17:45 |

『よだかの星』という童話は有名ですが
その中に、よだかが鷹に、改名しろと迫られるシーンがあります。

強く勇敢な鷹にとっては、弱く醜い「よだか」の名前に、
仮にも「鷹」がつくのは許せない、ということで
いっそ「市蔵」という名前に変えろと迫られます。

この「市蔵」という名前。
夏目漱石の『彼岸過迄』という作品の登場人物の名で
その昔にいわれた「高等遊民」だということです。

高等遊民(こうとうゆうみん)は、明治時代から昭和初期の近代戦前期にかけて多く使われた言葉であり、大学等の高等教育機関で教育を受け卒業しながらも、経済的に不自由が無いため、官吏や会社員などになって労働に従事することなく、読書などをして過ごしている人のこと。(wikipediaより)


いわゆる、ぶらぶら遊んでいるお金持ちのインテリのボンボン
ということでしょう。

しかし、よだかは決して恵まれた境遇にあるわけでもなく
ここにこの「市蔵」という名前が出てくるのは
「高等遊民」という存在自体が一般的に
やっかみ半分、軽蔑されていたからでしょうか。
それとも、賢治自身の負い目みたいなものと関係しているのでは…と思ったりします。


先日、友人に誘われて三重県立美術館へ行き
川喜田半泥子(かわきたはんでいし)という人の美術展を見てきました。
1878年、豪商の裕福な家に生まれ、
百五銀行の頭取を勤め
陶芸や書・絵画をなどの多数の作品を残した人です。

会場では、当時珍しかった映写機で自分が陶芸をしている様子や
仲間とテニス大会をしている映像も放映されていました。

それを見て私は賢治の詩、[あすこの田はねえ]を思い出しました

   これからの本統の勉強はねえ
   テニスをしながら商売の先生から
   義理で教はることでないんだ

半泥子は、“テニスをしながら商売をした人”だったのですね。
それはある意味非常に幸せなこと。
「ケセラセラ(=なるようになるさ)」をモットーにしていたようですが
そういう心の持ち方は、苦しみや困難を乗り越えるためには
大切なことかも知れません。

ただ、やはり賢治好きの私としては
賢治と半泥子、二人の生涯のあまりの違いに、
形容しがたいものを感じてしまいました。

賢治も、本来はそれなりの仕事をし、
自分の楽しみの為だけに生きられる立場の人だった。
そのように生きたとしても、
だれも非難などしなかったでしょう。
逆に財を使って誰にもわかり目に見える仕事をすれば
ありがたがってもらえたかも知れない。
それを、あえて自ら選んで困難な道に進んだ賢治に対し、
どうしようもない重い哀しみのようなものを感じ
しばらく呆然としてしまいました。

賢治は端から見れば「高等遊民」に見えたのかも知れませんし
私のまわりにも、言葉こそ違えど、
たぶんそれと同じようにしかとらえていない人もいます。

しかしながら、もし賢治がそのような生涯を送ったとしたら
作品だって違うものになっていたであろうし
私が賢治をこれほどまでに好きになったかどうか。

私にとって、宮沢賢治は不思議な人であるけれど
宮沢賢治があのような宮沢賢治だったからこそ
何年もずっと追いかけていながら
少しも飽きることなく
なお深く索めたくなる人であることに違いはありません。
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# by signaless5 | 2010-06-17 13:35 | 思うこと